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礼拝メッセージより
「命のパン」 2009年5月10日
聖書:ヨハネによる福音書 6章22-40節
しるし
ある牧師がこんなことを言っていた。今のクリスチャンはやくざよりもたちが悪い。やくざは一度助けてもらうとそれを恩義に感じ、助けてもらった人に仕えていく、けれども今のクリスチャンは神さまに助けてもらってもそれに感謝し神に仕えることはなく、もっと助けてくれという、恵みをもらった時も、もっとくれもっとくれという、今のクリスチャンは本当にたちが悪い、と言っていた。
ヨハネによる福音書6章1節からのところに、イエスが五つのパンと二匹の魚から五千人の群衆を満腹させたことが書かれている。
そしてその翌日、群衆はイエスを捜し求めてカファルナウムというところへやってきた。熱心に自分を慕って湖を渡ってやってきたわけだ。しかしイエスは彼らに対して、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与えられる食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」なんてことを言った。
一体何が言いたいのかちょっと分かりづらい。しるしを見たからではなくて満腹したからわたしを探している、というのは、そこに神の力を感じたからではなく、腹一杯になったのがうれしくてこれからもずっと食べ物を与えて欲しいという思いからやってきた、ということなのかなと思う。それは今の私たちと同じ感覚みたいだ。神から恵みをもらうともっとくれもっとくれ、なぜくれない、となるのと似ている。
でもイエスはここで話しを少し変える。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい、これこそ、人の子があなたがたに与えられる食べ物である、なんてことを言う。朽ちる食べ物というのは毎日の食事のことだと思うけれども、永遠の命に至る食べ物とは、そしてそのために働くとはどういうことなんだろうか。
群衆はそんなイエスの言葉に対して、「神の業を行うためには、なにをしたらよいでしょうか」と聞いた。この話の流れから言うと、永遠の命に至る食べ物のために働くこと、というのは、神の業を行うことになるようだ。
永遠の命というのは、時間的に終わりがない命というよりも、永遠者との交わり、永遠である神との交わりのうちにある命、ということのようだ。神との交わりの中にある命のために働くということは、つまり神の業を行うということなんだろう。
神の業
イエスはそれに対して、神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である、と答えた。
ちょっと不思議な気がする。神をお遣わしになった者とはキリストのことだろうけれども、キリストを信じることが神の業であると言われるのだ。信じることっていうのは信じる側のことがらであって、それは人間の業なんじゃないかと思う。自分の力で信じていると思っている、けれどもイエスは信じることが神の業である、と言うのだ。
自分の側から神へ向かって橋を架けることによって自分と神との繋がりを持つことができると考えている。けれどもどうやらそうではなくて、神の側から私たちのところへ橋を架けてくれることによって私たちと神との繋がりが持てるということのようだ。だから私たちがすることは神の側から架けられた橋を受け止めるということのようだ。
ではどうやったらそれを信じられるのか、と誰もが思うだろう。群衆もイエスに聞いた。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」と聞いた。信じることが神の業なら、私たちが信じられるようなどんなしるしを見せてくれますか、かつて先祖はモーセによって荒れ野でマンナを食べましたが、あなたはどんなことをして見せてくれますか、と言ったわけだ。
群衆はどんなしるしを期待していたのだろうか。自分たちの満足できるようなしるしを見せてくれるなら、自分たちに都合のいいしるしを見せてほしいと思っていたのではないかと思う。毎日の食事を用意してくれたり、自分の欲しいものを与えてくれたり、案外そんなしるしを待っていたのではないかと思う。
僕は教会に行き始めた頃、信じれば山も動くというような聖書の話しを聞いて山が動かして欲しいと願っていたことがあった。結構真剣に。
うちの実家は愛媛県にあって、当時愛媛県にはテレビの民放が二つしかなかった。海に近い場所なので近所でも立地条件のいいところでは県外のテレビが写るところがあった。それで新聞のテレビ欄にも県外の放送局のも載っていた。
ある時、新聞を見ている時に、中国放送というところでダイヤモンドサッカーというのをやっているのを発見した。ところが家から広島方面には小高い山があった。それでも無理矢理アンテナの向きを変えて写りの悪いテレビを見ていた。カラーテレビなのに白黒になったりカラーになったりというような悪い画像で見ていた。なので信じれば山も動く、という聖書を知った時には本当に山が動くことを期待した。今思えばまったく自分勝手なあほな願いだけど、結構その頃は真剣に願っていた。
群衆たちもあるいは、そんな自分に都合のいい願いを満たしてくれるようなしるしを待っていたのかもしれないと思う。神が自分の奴隷となって自分の命令に従って何でもしてくれるような、そんなしるしを待っていたのかもしれないと思う。
しかしイエスは「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである」と言った。天からのパンを与えたのはモーセではなくて父が与えたのだ、と言っているのかと思ったらそう言ってはいない。モーセの時には与えたと過去形になっているけれど、父の時は与えると現在形になっている。そうすると、天からのまことのパンをモーセが与えたのではなくて、父が今与えるのだ、と言っている。
そこで群衆は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言った。イエスは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して植えることがなく、わたしが信じる者は決して渇くことがない。」と言った。父が今与える命のパンはイエス自身なのだというのだ。
イエスを食べること、イエスとの繋がりを持って生きること、それが神が私たちに与えられたパンを食べることなのだ。
そしてイエスは、わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない、と言う。
神は私たちに食事から何から全部準備して、何もしなくてもいいように、何でも願いを叶えてくれるようにして待っているのではないようだ。そうではなく、自分の足でしっかりと立ち、自分の力でしっかりと生きていけるようにしようとされているのだと思う。そのためには神との、またキリストとの繋がりを持つことが大切である、そのために私たちのところへキリストが来てくれているのだと思う。イエスはそんな風に私たちを生かし力づける命のパンなのだ。命のパンを食べ、ということはイエスの言葉をしっかりと食べ、イエスとの繋がりをしっかりと持って生きていきたいと思う。それが私たちを豊かな人生へと導いてくれるもとなのだと思う。