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礼拝メッセージより
「出会い」 2009年5月3日
聖書:ヨハネによる福音書 4章1-30節
サマリア
ユダヤからガリラヤへ向かう途中。通常ユダヤ人は回り道をしてサマリアを通らない。イエスに従う弟子が多くなることをファリサイ派が知ったということでイエスは急いでガリラヤへ向かっていたのかも。最短距離を通って。そうするとサマリアを通らねばならない。
ユダヤ人とサマリア人の対立は何百年も昔からのことだった。紀元前722年、当時南北に分かれていた内の北イスラエルはアッシリアによって滅亡させられそのことからいろんな民族が混じるようになった。南のユダも後に滅ぼされるが、バビロン補囚後に国を立てなおす際に、民族の血の純潔を守ることを再建の原理とした。そのためユダヤ人はサマリア人をエルサレム神殿に受け入れず、これに対抗してサマリア人はゲリジム山に独自の神殿を建設し、モーセ五書のみを独自に編纂して対立を深めた。その後もアレクサンドロス大王によってマケドニア人がサマリアに殖民させたために、ユダヤ人は余計にサマリアを蔑視するようになった。そんなことからユダヤ人とサマリア人は何百年もの間ずっと対立していた。そのためユダや人たちは旅をするにもまっすぐサマリアを通れば近いのにわざわざ遠回りをしてサマリアを通らないようにしていた。
疲れ
ここに来る前にイエスと弟子たちはエルサレムにいたようだ。そしてガリラヤへ向かっている。この時イエスたちはサマリアを通る最短の道を選んでいる。ヤコブの井戸まで来た時イエスは疲れていたと書かれている。あるいはファリサイ派の追っ手から逃れるために道を急いでいたのだろうか。前の晩遅くにエルサレムを出発して、休みなく歩いたとすると、丁度このシカルという街に着くのが昼の12時ごろになるそうだ。どうやらそれに近い旅のようだ。夜通し歩いたとすれば肉体的にも相当疲れていただろうが、精神的にもかなり疲れる旅だったことだろう。
頼み事
そこでイエスは丁度井戸に水をくみに来た女に水を飲ませてください、と求める。この女の人はびっくっりしてしまう。女の人は、なんでユダヤ人がサマリア人にそんなことを頼むのか、と言い返す。いつも汚らわしいというような気持ちで見ているくせに、どうしてそのサマリアの女に頼み事なんかするのか、ということだろうか。
イエスは、もし水を飲ませてくれと言った者が誰なのか知っていたらあなたの方が頼んだだろう、そしてその人はあなたに生きた水を与えたであろう、なんてことを言う。生きた水って何なんだろう、一体何を言っているんだろうと思う。このサマリアの女の人も何を言っているのかよく分からなかったのではないかと思う。
この女の人は正午ごろ水を汲みに来ている。それは異常なことだそうだ。普通は朝か夕暮れに汲みに来るそうだ。その後の会話から、彼女にはかつて五人の夫がいて今の相手は正式な夫ではないということのようだ。そんなことがあるためなのだろう、彼女は誰にも会わなくていい時間に、あえて誰もいない時間を見計らって井戸に水を汲みに来ていたようだ。誰とも関わりたくないという思いを持っていたのだろう。誰に会っても、あの女はみっともない女だ、とか言われていたのかもしれない。
多分彼女にとっては人間関係は煩わしいだけのことだったに違いない。誰かになにかを頼まれたり頼んだりするようなことをする気持ちはもうなくなっていたのではないか。周りの人間は自分を非難し蔑むだけの者だとして誰とも関係を持たないように心を閉ざしていたのではないか。
しかしイエスはそんな女の人に声を掛け水を求めた。彼女はイエスとの関係を持つことからイエスの与える水を求めるようになる。求められることから自分も求めるようになる。そんな他者との関係が生まれてきた。
この女の人は、あなたはその生きた水をどうやって手に入れるんですか、くむ物も持っていないし井戸も深いのに、なんてことを言う。それに対してイエスは、「この水を飲む物はだれでもまた渇く、しかしわたしが与える水を飲む者はけっして渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言った。どうやらイエスは精神的な、あるいは霊的な水、たましいの渇きをいやすような水の話をしているらしい。しかしこの女の人は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」というように、普通に飲む水のことを考えているようだ。女の人にとって水をくみに来ることはかなり大変ことだったのだろう。だから水がわき出るようになればくみに来なくてもよくなる、と期待したのだろう。
そういうことじゃなくて、水と言ったけれど井戸でくむ水のことじゃなくて、と言いたくなるような場面だ。けれどイエスは女の人の誤解を正そうとはしないで「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言って次の質問に移っていった。女の人は「わたしには夫はいません」と言った。どうやらそれは間違いではなかったようだ。詳しい事情は分からないけれども、この女の人には5人の夫がいて、今は夫ではない人と連れ添っていた。だから夫がいないというのは正しかった。でも男性関係はこの人にとっては触れられたくないことだったのだろうと思う。
この女の人は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言って礼拝すべきところはどこなのか、というような話を持ち出してきた。急に話が変わってしまったけれども、やっぱりイエスはそのことに対してとやかく言うことはない。そして場所が問題ではなく霊と真理をもって礼拝しなければならない、という話をする。女の人は、キリストと呼ばれるメシアが来られて、一切のことを知らせてくださいますと言い、イエスはそれはこのわたしである、と答えた。
ちぐはぐな会話が続いてきたけれど、最後にはイエスが自分がメシアである、キリストであると告げることになった。
イエスと出会うことで、イエスと話すことでこの女の人は変わってしまったようだ。彼女は町に行って、自分のことを全部言い当てた人がいます、この人がメシアかもしれません、と人々に言ったというのだ。それを聞いた人々はイエスのもとにやってきたというのだ。どんな風に言ったのだろうか。どんな風に言ったらみんながやってきたんだろうか。
恐らく誰にも会いたくなくて真っ昼間に水をくみに来ていた人だった。その人がいわれもしないのに、頼まれもしないのに、町の人たちをイエスのもとに連れてくることになった。
イエスと出会うことで、イエスと話すことでこの女の人は変わったようだ。
きっと彼女は人に言えない苦しい思いをずっと持ちつづけてきたのだろう。周りから白い目で見られていることで余計に苦しくなっていたのだろう。男性関係のことが話題になるたびに周りから責められ続けてきたのではないかと思う。どういういきさつでそうなったのは分からないし、彼女が悪かったのかどうかも分からない。けれどもそのことは、この女の人にとってはそんな誰にも触れられたくない、ちょっと触れられるだけで痛みだす傷だったのだろうと思う。
イエスもその傷に触れた。けれどもそのことに対してこの人を責めることはなかった。あなたのことはよく知っている、あなたの過去はよく知っている、と言っただけだった。知られているけれども責められない、自分のことは何でも分かっている、そしてそんな自分を受け止めてもらっている。この女の人はそんな思いを持ったのではないかと思う。知られているということは隠さなくてもいいということだ。隠したいというのはそれを知られることで責められたり除け者にされたりするという恐れがあるからだろう。知られている、けれども受け止められていると分かれば恐れもなくなるわけだ。イエスとの出会いはそんな出会いだったのではないかと思う。
ことば
イエスと出会うことで女の人は変わった。彼女の心は解きほぐされた。イエスとの会話の中で彼女の張りつめていた心は解かれていったのだろう。
私たちはどこでイエスと出会うのか。私たちはこの女の人のようにイエスと面と向かって会うことは出来ない。しかし私たちはイエスの言葉と出会うことによってイエス自身と出会っているのではないか。イエスの言葉を自分の心の中へ聞き入れることは、この女の人がイエスから聞いたと同じことだ。彼女はイエスとの出会いによって心をほぐされ解放されていった。私たちもイエスに言葉を聞くことでイエスと出会うことができる。そして私たちも心もきっと解きほぐされるだろう。そこには新しい人生が待っているのかもしれない。