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礼拝メッセージより
「笑顔」 2009年4月26日
聖書:ヨハネによる福音書 2章1-11節
結婚式
イエスが5人の者を弟子としてから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があった。カナというのはイエスの育ったナザレから北に13qほどの所にある町だそうだ。その婚礼にイエスの母マリアもいた。そしてイエスと弟子たちも婚礼に招かれていた。
パレスチナの婚礼の儀式は夕方遅く行われて、式が終わると二人は既に暗くなった中、村の道を出来るだけ回り道をして、みんなに幸福を祈られながら自分達の新居に案内されたそうだ。新婚の二人は新婚旅行にいかないで、家にいて一週間その家を解放した。二人は冠をつけて婚礼の衣装を着ていたそうだ。普段は貧しく重労働をしていても、この時ばかりは王と王妃のように振る舞って、何でも言うことを聞いて貰えた、そんな最高に幸せな時であったそうだ。今でもパレスチナでは、多くの婚礼客が入れ代わり立ち代わり歌ったり踊ったりの祝宴が行われているそうだ。イエスと弟子たちもそんな祝宴に招かれたのだろう。
ところがそんな時にぶどう酒が足りなくなってしまった。ユダヤ人の祝宴にとってぶどう酒は不可欠なものだった。ぶどう酒は土地の豊かさを象徴する神の賜物であって、特に貧しい人たちにとって祝宴のぶどう酒は何よりの楽しみでもあった。また祝宴でぶどう酒がなくなるということは新郎新婦の面目を潰すようなことでもあったようだ。
イエスの母マリアはこの婚礼ではただの客ではなく、もてなす側の仕事をしていたらしい。マリアはイエスに、ぶどう酒が足りなくなったということを伝える。するとイエスは母に、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と答えたという。なんだかちょっとひどい言い方のように聞こえる。
しかしマリアはそれに腹を立ててしまうわけでもなく、召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。マリアはイエスならどうにかしてくれると思っていたのだろうか。
イエスはマリアの期待に応えるかのように、召使いに水がめに水をいっぱい入れるよう、そしてそれをくんで宴会の世話役に持って行くように命じる。水がめは、家に入るときに足を洗うために必要だった。それとユダヤ人たちが律法の規定に従い清めの儀式に用いるもので、一つが100リットルほどもあったそうだ。
世話役はぶどう酒に変わった水を飲み、良いぶどう酒を今まで取っておくなんて珍しいというようなことを言った。これがイエスの最初のしるしであったとこの福音書は告げる。そして弟子たちはイエスを信じたという。
従うこと
こうしてイエスの最初のしるしは行われた。みんなが二人の新しい門出を祝い、くつろいだ気分で祝宴を行っている、そんな時にイエスは最初の奇跡を行ったというのだ。二人の面目を保つということもあったのだろうけれども、何よりも祝宴の楽しい愉快な雰囲気を壊さないためにイエスは奇跡を行ったのだろう。イエスは結構愉快な面白い方だったのだろう。いつもしかめっ面して眉間にしわを付けていたわけではないようだ。周りの人間が歌ったり踊ったりするようなこともきっと喜んで見ていたのだろう。あるいは一緒に歌ったり踊ったりしていたのかもしれない。
教会ではなんだかいつも静かにしていないといけないし、厳かにしていないといけないような雰囲気があるけれども、そういうのをイエスが望んでいるというわけではないような気がする。礼拝でもなんだか笑ってはいけないような雰囲気があるが、それは牧師がそんな雰囲気をつくっているのかもしれないが、げらげら笑ってもいいし、本当は教会の礼拝もそんな楽しいにぎやかな雰囲気の方がふさわしいのではないかと思う。
兎に角そんな祝宴の時にイエスはしるしを行われた。そしてその奇跡に関わったのは召使いだった。彼らがしたことは単純なことだった。水がめに水を入れ、その水をくんで運んだ、それだけのことだった。彼らにとってそこに一体何の意味があるのかと思うようなことだったと思う。何人の人が水をくんだのか分からないが、100リットル入りのかめ六つをいっぱいにするのは相当大変なことだったのではないかと想像する。しかし彼らはイエスの言ったとおりにした。そしてそのことを通してイエスは奇跡を行った。そこで栄光を現されたのだ。イエスの言葉に従って動いた、それは奉仕と言ってもいいことだと思う。でもそれは彼らにとっては特別なことをしたわけではなかった。
私たちの奉仕も、水をくんだり運んだりするようなことかもしれない。奉仕というのは特別な才能がないとできないことばかりではなくて、ほとんどの奉仕はいつでも出来るようなことだったり、誰でもできるようなことだったりする。そしてこんなことしたって何の意味があるのか、大して役にも立たないじゃないかと思えるようなことだったりすることが多い。しかしそんな奉仕を通してイエスは栄光を表してくれるのだろう。
また、召使いはマリアがこの人の言うとおりにしてくれということからイエスの言葉に従うことになった。マリアがこの時イエスのことをどう思っていたのかはよくわからない。どれほどイエスのことを理解していたのかもわからない。もちろん生まれたときのことや育っていく中で何かを感じつつ過ごしてきたと思う。この時救い主であるということを完全に理解していたというわけではないだろう。
けれども困ったことが起こったとき、マリアはイエスに頼むことを知っている。イエスがどんな風に解決してくれるのか、どんな力がイエスにあるのかきっとあまりよくは分かっていない。けれどもマリアはイエスに頼むことを知っている。そしてイエスはマリアが自分のことをよく分かっていなくても、マリアの期待に応えた。きっとマリアが願っていた以上のことを行ったということだろう。
本当に水がぶどう酒の変わったりするのか、よくわからない。一体どうやったらそうできるのか全然分からない。しかし自分ではどうしていいのか皆目分からないことでもイエスに任せた、イエスに頼んだことで、問題は解決した。
ぶどう酒がなくなった、なんてことイエスに頼むようなことなのかと思う。そんなこと自分たちでどうにかしろよと思う。でもイエスはそこでしるしを行ってくれた。そんなことまで面倒みてくれた。
私たちはどんなことでもイエスに頼んでいいということなんじゃないかと思う。どんな小さなことでも、大きなことでも、こんなことになってしまった、どうしよう、とイエスに言っていいんじゃないかと思う。そのことを伝えてくれている話じゃないかと今回思った。
イエスは召使いに水をいっぱいにしなさいと言われ奇跡を行った。祝宴を守った。祝宴の雰囲気を守った。陰で支えた。それによって結婚式の主催者側の面目を保つことができたわけだけれど、それよりもイエスは楽しい喜びの宴を、そしてみんなの笑顔を守りたかったのではないか、笑顔を悲しみの顔に、失望の顔に、あるいは落胆の顔にしたくなかった、そのためのしるしだったのではないかと思う。
イエスは私たちが喜ぶ時に目一杯喜べるように、そして悲しむ時には心の底から泣けるように、そのためにいつも共にいてくれているのではないかと思う。私たちの気持ちを、心を、どんなことでも受け止めたい、分かち合いたいと思ってくれているのではないかと思う。
だから喜びも楽しみも悲しみも苦しみも嘆きも、イエスに語っていきましょう。イエスはどんなことでも聞いてくれるはずだ。そして聞いて貰うことから私たちの何かがきっと変わってくると思う。それが祈りなんだと思う。