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礼拝メッセージより
「前から」 2009年4月19日
聖書:ヨハネによる福音書 1章43-51節
出会い
イエスと弟子たちとの最初の出会い。それはバプテスマのヨハネを通してだった。イエスの最初の弟子はバプテスマのヨハネの二人の弟子だった。そのうちの一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレだった。彼らはヨハネが、「見よ、神の小羊」という言葉を聞いてイエスに従った。彼らはその日はイエスのもとに泊まった。
アンデレはすぐに兄弟のシモン・ペトロに、「わたしたちはメシアに出会った」と言い、シモンをイエスのところへ連れて行った。
イエスはシモンのことをケファ、岩と呼ぶことにすると言われている。出会ってすぐに岩と呼ばれると書かれている。他の福音書によるとイエスはその岩の上に教会を建てるということを言われているが、このヨハネの福音書では出会ってすぐにシモン・ペトロと呼ぶことにすると言っている。ペトロは弟子たちの中心的な存在となったようだが、イエスは出会ってすぐにそんな役目をペトロに任せているということのようだ。
その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポと出会って「わたしに従いなさい」と言われた。このフィリポとアンデレとペトロはベトサイダという町の出身だった。その後フィリポはナタナエルに出会い、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と告げた。要するに旧約聖書に約束されているメシア、キリストに出会った、それはナザレのイエスだということだ。
ナタナエル自身はナザレの隣り村であるカナの出身だった。ナタナエルは、「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言った。ナタナエルにとってメシアがナザレから出るなんてことは考えられないことだったようだ。ナタナエルは聖書をよく知っていたようだ。聖書にはメシアはベツレヘムで生まれると書かれている。ベツレヘムという地名は出てくるけれどもナザレという地名は聖書には出てこないということも知っていたようだ。
後でイエスが、あなたがフィリポから話しかけられる前にいちじくの木の下にいるのを見た、と言っているが、いちじくの木の下というのは、そこで瞑想する習慣があるのだそうだ。つまりいちじくの木の下にいるのを見た、というのはそこでお祈りしていた、あるいはメシアについて思いを馳せて瞑想していたということなんだそうだ。
ナザレからいいものが出るなんてことはない、というナタナエルに対してフィリポは、「来て、見なさい」と言ってナタナエルをイエスのもとへ連れて行った。自分が言ったことを否定されたような状況である。こんな時は、その人はこんなにすごい人なんだ、本当にメシアなんだということを一所懸命に説明して自分が言ったことが正しいということを主張しそうである。自分が言ったことの方が正しいということを相手に分からせよう、説き伏せようとしがちである。しかしフィリポは、来て見なさいと言った。つべこべ言わずに来て見ろよ、と言った。
教会では伝道、伝道、伝道が大切だ、伝道しましょうとよく言うけれど、伝道とは来て見なさいということなんだろうと思う。伝道は相手を説き伏せ、納得させることではなくて、来て見なさいと言ってイエスに出会わせる、出会ってもらうことなんだろうと思う。
バプテスマのヨハネも、自分の弟子をなんのためらいもなくイエスに引き渡しているようだ。あなたたちの本当の先生はこの方だ、この方に従いなさいと言ってそのまま自分は身を引いている。
大切なのは誰が紹介したかではなくて、誰に会ったかなのだ。大切なのはイエスに会うことであって、誰の紹介だったかなんてことは問題ではない。バプテスマを授けたのが誰だったかというのは大した問題ではないのだ。だから最近の信徒手帳のバプテスマ証というのには誰がバプテスマをしたかという欄はない。
そういう風に、いろんな人を介して弟子たちはイエスと出会い、イエスこそがメシアである、キリストであると告白し、そして弟子とされてイエスに従っていく。もちろん彼らがイエスの何もかもを知っていたからそう告白したわけではない。分かっていることはきっとほんの一部分だったに違いない。イエスがどこで生まれてどんな暮らしをして家族はどうでなんてことなら、あるいは知っていたかもしれない。しかしイエスの本質を見抜いていた弟子たちはきっと誰もいなかったのだろう。しかしその者たちをイエスは自分の弟子として呼ばれているのだ。そして弟子たちはそのイエスに従ったのだ。そして従っていく中でイエスの姿を少しずつ知っていったのだと思う。
私たちがバプテスマを受けるときとよく似ている。何もかも分かってイエスを信じ従っていこうと決心したわけではない。よく分からんけれどもイエスこそキリストだ、救い主だと信じて従っている。そうする中で少しずつイエスの姿が見えてくる。
見つめられて
聖書を見ていると、イエスは何だかその時そこで出会った者を適当に弟子にしかたのようでもある。でもイエスは一人ひとりを見つめている。一人ずつ弟子にしている。弟子たちがイエスについていったのも、ついて行く決心ができたのも、イエスに見つめられていたからだろう。ナタナエルが、いちじくの木下にいるのを見たということを聞いて、あなたは神の子ですと言ったけれども、イエスに見つめられることで、イエスにしっかり見られている、知られているということを知ることで、弟子たちに変化が生まれたようだ。
イエスは弟子たちを見つめて、選び、務めを託す。任命する。何かをしたからでも、試験を受けて合格したからでもない。弟子たちを選んだとき、すでにもう彼らに弟子としての務めを託すことに決めている。
どうして彼らはイエスの弟子となれたのか。彼らはただイエスに選ばれ招かれたから弟子となった。ただそれだけ。イエスが選んだから。弟子たちにとってはどうして自分なのか、訳が分からないと言ったところだろう。
私たちがこうして今教会に集められていることも全く同じだと思う。どうして私たちがここにいるのか。もちろん試験に合格したからではない、何か特別なものを私たちが持っていたからでも、私たちがいい人間だったからでもない。ただ神が私たちを招いてくれたからだ。神から、あるいは誰かを通して、来て見なさいと声をかけられたから、私たちはこうして教会に集められイエスと出会っている。面と向かってあってはいないが、聖書を通して、言葉を通してイエスと出会っている。言葉であるイエスと出会っていると言った方がいいのかもしれない。イエスは弟子たちをひとりひとりしっかり見つめているように、私たちもそれぞれ大切なひとりとして見つめられていることだろう。
私たちは失敗したり挫折したりした時、この苦しみは誰にも分からないと思い、ただ一人で耐えるしかないという気になる。そしてひとりぼっちなんだという思いが余計に私たちを苦しめる。
けれどもイエスはいつも私たちを見つめてくれているはずだ。ナタナエルに会う前から彼を見つめていたように、私たちが気付いていない時にもイエスは私たちを見つめてくれている。
私たちにとって大事なことはこのイエスに見つめられ続けていくこと、イエスの視線の中に居続けること、いやどんな時でもイエスの視線の中にいるということを知ることなんだろうと思う。
ずっと前から
子どもが幼稚園の時に誕生会があった。そしてその月生まれの子ども達のお祝いをしていた。その時いつもこんな歌を歌っていた。
生まれる前から 神さまに
守られてきた ともだちの
たんじょう日です おめでとう
幼稚園では、ともだちの、のところを○○ちゃんのに変えていたけれど。
生まれる前から守られてきたというのは、ちょっとすごいことだなと思う。
ヨハネの福音書のイエスの最初の言葉は「何を求めているのか」という言葉だった。弟子たちはそれぞれにいろんな求めがあったことだろうが、その中でイエスはナタナエルに対する答えのところで、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる、天が開いて神の天使たちが人の子の上にのぼりおりするのを見ることになる」と言っている。
私たちはそれぞれにいろんなものを求めて教会に来ている。イエスの下に来ている。健康であるように、偉くなるように、試験に受かるように、といろんなことを願う。お金持ちになるようにも。しかしイエスは私たちの求めているもの以上の、もっと偉大なことを見せてくれようとしているのだろう。私たちが初めて教会に来たときに何を求めてきたか、そして今何を見せられ何を与えられているだろうか。
弟子たちはその偉大なものを見せて貰って、イエスのことを少しずつ知っていったのだろう。十字架を前にして逃げ出した弟子たちだった。しかしそんなこともひっくるめて、そんな弱さを持つ人間であることも知った上でイエスは彼らを自分の弟子としていたのだろう。そしてそんな弟子たちにイエスは大切な務めを託している。
弟子たちがそうであったように、私たちもきっとそれぞれにいろんな務めを任せようとしているのだと思う。イエスが私たちに任せたいと思っている務めはなんだろうか。そのことも聞いていこう。そしてその務めを果たしていこう。来て見なさい、と言えるようになりたいと思う。そこでイエスと出会える、そんな教会となっていきたい。何よりも私たちがここでイエスと出会っていこう。ずっとずっと前から私たちを見つめてくれているイエスの視線を感じて生きていきたいと思う。