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礼拝メッセージより
「希望」 2009年4月12日
聖書:ヨハネによる福音書 20章24-29節
絶望
生きるためには、希望がないといけないと思う。自分の人生はこれからこうなっていくだろうというような道筋が見えているならば、あるいはこうなってほしいと希望があるならば、それに向かって進んでいける。しかしそんな道筋が見えなくなってしまうと、希望をもてなくなってしまうと、生きる力さえもなくなってしまうような気がする。
平和
イエスが十字架で処刑されたのが金曜日だった。次に日が安息日で、その次の日、日曜日つまり週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸には鍵をかけていたという。19節以下のところにその時のことが書かれている。師匠であるイエスの処刑に弟子たちは打ちのめされていたようだ。次は自分たちにも同じような運命が待ち構えているかもしれないという恐怖におののいていたのかもしれない。
恐怖だけではなく、いろんなことに失望していたのかもしれない。彼らは3年間イエスに従ってきた。イエスに希望を託し、自分の仕事を捨て、それぞれの人生を掛けてきたのではないか。しかしそんな命を掛けて従っていたはずのイエスは十字架で処刑され、しかも自分達は師匠に最後までついて行くことも出来ずに見捨ててしまったのだ。どこまでもイエスについていけたならば、そこでどうなろうと自分自身納得もできたかもしれない。しかしそれもできなかった。かつての生活を捨ててすべてをイエスにかけて従っていったはずなのに、そのイエスをも見捨ててしまったのだ。自分たちの生きる道を見失ってしまったであろうし、また自分たちの不甲斐なさも思い知らされていたのではないだろうか。
そんな恐怖と絶望と挫折と、いろんな思いに弟子たちは打ちのめされていたのだろう。
しかしそんな中にイエスは現れる。復活のイエスが現れる。行き場のない、どこに行く力もなくしている弟子たちの中にイエスが入って来たというのだ。そして、あなたがたに平和があるように、と言う。
弟子たちはそのイエスを見て喜んだ。家の戸に鍵をかけ、何者をも寄せつけないようにしていた、そして彼らの心の中も同じような状態だったのではないか。誰の励ましも慰めも聞こえない、聞けない状態だったのではないか。
そんな中にイエスは現れる。イエスは弟子たちを責めに来たのでも叱りに来たのでも、裁きに来たのでもなかった。平和を、平安を与えるために来たのだ。そしてそのイエスに会うことで弟子たちは喜んだ。
疑い
ディディモと呼ばれるトマスはその時そこにいなかった。トマスは最初の日にイエスが弟子たちの所に来られた時には一緒にいなかった。そして他の弟子たちからイエスを見た、と聞いても信じなかった。釘跡に指を入れて、わき腹に手を入れてみないと信じないと言ったというのだ。
トマスは疑い深いのだろうか。よくそんな言われ方をするが。そうかもしれないがとても堅実なのではないかという気がする。私たちは周りの声にすぐに踊らされてしまうことが多いがトマスは自分でそれを確かめないと信じないと言う。
そのトマスが一緒にいる時にイエスはまた弟子達のところへ来られた。そしてトマスに、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい、と言う。トマスは、わたしの主、わたしの神よ、という。イエスは最初そこにいなかったトマスのためにまた現れたのだろう。十字架に付けられた姿のイエスが、傷を負った姿のイエスがトマスにも現れた。イエスは最初に弟子達に現れた時にも手とわき腹とを見せたという。トマスは指を釘跡に入れないと、手をわき腹に入れないと信じないと言っていた言葉に反して、そんなことをしたとは書かれていない。イエスと会ったことで、そんなことはどうでもよくなったかのようだ。
11章を見るとトマスはイエスが危険なユダヤへ行こうとした時に、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言っている。彼はイエスのために死ぬ覚悟を持っていたようだ。
しかし現実にイエスの身に危険が迫ってくると彼はイエスのもとにとどまることが出来なかった。そしてそれはトマスにとってもつらい現実だったのではないか。かつて自分はイエスと一緒に死ぬこともいとわないという熱意を持っていた。死ぬことも出来るという自信もあったのかもしれない。しかしそうではなかった。偉そうなことは言ったけれども出来なかったという自分を、自分の無力さをだらしなさをトマスはこの時思い知らされていたのではないか。そしてそんな自分を自分で責め続けていたのかもしれないと思う。
そんなトマスにとってもイエスが復活されたということは喜ばしい出来事だったに違いない。それが本当ならばどれほどうれしいことかという思いはあったのではなか。だからこそ余計にそれが本当なのかどうかを確かめようとしているのだと思う。人の話しを下手に信じれない、下手に信じて実は間違いでしたと言うようなことになったときに余計に落胆するようなことは何としても避けたかったのかもしれない。
本当にイエスが復活したならそこでもう一度やりなおすことが出来るかもしれない、そこにもう一度人生を掛けることができるかもしれない、あるいはもうそこにしか希望がない、そこにしか生きる手だてもない、そんな状況だったのかもしれない。だから簡単に人の話しだけで信じることは出来ない、自分でしっかりと確かめないではいられない、そんな心境だったのではないだろうか。だから敢えて強い調子で、釘跡に指を入れ、わき腹に手を入れないと信じない、なんてことを言ったのではないかと思う。
ただ単に疑い深いとか不信仰だからというわけではないような気がする。それだけトマスにとっては大切な重大な問題であった、いい加減では済まされない問題であったということだったのだろう。だからトマスが復活のイエスと出会って、わたしの主、私の神よ、と言った言葉もとても真剣な言葉だったのではないか。そしてまたそれはきっと喜びの言葉だったのではないか。復活のイエスと出会ったという喜びは誰にも負けなく位大きかったのだろうと思う。
面白いことにその見るまで信じなかったトマスも弟子たちの中にいっしょにいる。疑いの言葉を吐くトマスを、でも他の弟子たちは仲間はずれにはしていない。信じない奴はどこかに言ってしまえ、俺たちの言うことを聞かない奴は出て行け、というようなことは言っていないようだ。否定的な言葉を吐くトマスを他の弟子たちはそのままで受け入れている。そしてトマスも弟子たちの中に留まっている。そんな中でトマスも復活のイエスと出会うことになった。
見ないで
復活とは一体何なのだろう。イエスはどんな姿で復活したのだろう。よくわからない。どこにそんな証拠があるのかという気もするが、科学的に証明できるようなものでもないようだ。
しかしたとえ科学的な証拠があったとしても、それが自分に関係のない出来事であったならばそれは自分にとっては何の意味もない。復活のイエスに出会わなければ、復活しようがどうしようが私たちにとっては大した意味はない。
弟子たちは復活のイエスに出会った、と聖書は告げる。イエスが逮捕され十字架につけられようとしたとき、12弟子たちはみんな逃げてしまった。そして周りの者を恐れて家に鍵をかけて隠れていた。
その弟子たちは50日後には堂々とイエスを伝えるようになった。イエスがキリストであること、自分達はその弟子であることをみんなの前で話すようになった。彼らにいったい何が起こったのだろうか。
聖書は、弟子たちは復活のイエスと出会ったのだと告げる。どんな形だったのかはよくわからない。けれども確かに出会ったのだ。弟子たちは復活のイエスと心の中でしっかりとであったのだろう。目に見えるような形での出会いだったのかどうかはわからないが、弟子たちは確かにイエスに出会った。失意のどん底にあった弟子たちは元気になっていった。そんな出会いがあったのだ。だからこそ、鍵をかけてこっそりと家の中に潜んでいた弟子たちが、イエスのことを堂々と宣教するようになったのだろう。
しかし人間には全く希望のないと思えるところ、そこをも神は支えていたということだ。弟子たちは復活のイエスとの出会いによって変わっていった。
たとえ私たちが今絶望していたとしても、私たちも復活のイエスとの出会いによって希望を持つことが出来るに違いない。
先に召された方々もそんな希望を持って生き、そして死んでいった。
死ぬことを考えることを嫌う社会だ。死について話すと縁起が悪いとよく言われる。そして実際死は私たちの終わりのように見える。私たちには、死が全てを消し去ってしまうように見える。死を考えるとあらゆる希望が消えてしまうかのように感じる。そこで希望がなくなるのならば確かに縁起の悪い話だ。
死を前にすると、私たちには全く希望がないように思える。しかし神はそこをも支配されている、そこにもイエスはいて下さる。復活のイエスはそこにもいてくれている。イエスは死を突き抜けて私たちと共にいてくれる。それが私たちの希望である。