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礼拝メッセージより
「真理とは」 2009年4月5日
聖書:ヨハネによる福音書 18章28-38a節
ピラト
ポンティウス・ピラトゥス(Pontius Pilatus, 在位26年 - 36年)はローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督(ただしタキトゥスによれば皇帝属領長官)である。日本の聖書翻訳では格変化語尾を省いてポンテオ・ピラトと表記するのが一般的である。(wikipediaより)
ピラトにとってユダヤ人達はやっかいな人たちだったんじゃないか。ローマ帝国では皇帝礼拝をしなければいけなかったようだが、ユダヤ人たちは特別に皇帝礼拝をしないでも認められていたようだ。そのユダヤ人達の総本山であるパレスチナ地方の総督がピラトだった。ユダヤ教に対する敵意のようなものを持っていたのかも。
ピラトはローマ軍の軍旗の先端に皇帝の像をつけてエルサレムにやってきたそうだ。それまでの総督はそう言う像がユダヤ人の嫌う偶像であると知っていたのでエルサレムに来るときはその像をはずしていたが、ピラトはそれをつけたままエルサレムにやってきた。そうするとユダヤ人達は像をはずしてくれと頼んだ。それでもなかなか聞いてくれないということで、ピラトに五日間まとわりついた。そこでやっと話しを聞こうということになったが、ピラトはユダヤ人達の周りを兵隊で取り囲んで要求を取り下げないと殺すと言った。そうするとユダヤ人達はならば殺せ、と頸を差し出した。
無抵抗の者を殺すなんてことになるとユダヤ人達が騒ぎ出すに違いないし、ローマではおかしなことがあると皇帝に申し出ることができるということになっていたようで、治安を維持できない総督であるということになると自分の立場も危うくなる、と思ったのだろうけれども、ピラトは軍旗についている皇帝の像を外すことに同意するしかなくなった。
ピラトとユダヤ人達にはその他にもいろいろといざこざがあり、ピラトにとってはユダヤ人は自分の思うようにできない面倒な人たちだったのだろう。
そんなユダヤ人達が今度はイエスを処刑してくれと言ってきた。
ピラトが、どういう罪でこの男を訴えるのかと聞いたが、ユダヤ人たちは、この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう、と答えている。ユダヤ人たちは俺たちが連れてきたからには罪があるんだ、つべこべ言わずに死刑にしろ、とピラトを脅迫しているような感じがする。
ピラトは、あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け、と言うと、ユダヤ人たちは、私たちには、人を死刑にする権限がありません、と言ったという。
ピラトは総督なんだから、ユダヤ人たちが死刑にする権限がないことはもちろん知っていただろう。自分のところへ連れて来たということは死刑にしてほしいということだということも分かっていただろう。でも敢えてお前達が自分でやればいいだろうと言うことで、ただユダヤ人の言いなりで死刑にするんじゃないんだ、お前達にできないことを俺はしてやるんだ、俺の方が上にいるんだ、というところを見せつけたかったような気がする。なかなか自分の思うようにならないユダヤ人に対する小さな復讐だったのかもしれないと思う。
ユダヤ人
一方ユダヤ人たちは何としてもイエスを処刑したいと思っていたようだ。しかし自分たちには死刑にする権利がなかった。自分たちだけで死刑にすることはできなかった。
しかし本当はピラトが言うように所詮はユダヤ人の問題だった。言わば単なる妬み、あるいはやっかみでもあったのだろう。自分たちが一所懸命に文字通りに律法を守ってきたことに対していちゃもんをつけられてきた、自分たちのことを批判された、そのことに耐えられなかったということなのだろう。
兎に角なんとしてもイエスを死刑にして、この世から抹殺しないとおさまらないという感じがする。一見冷静に見えるけれども、心の中は怒り狂ってる殺人鬼というような有り様だ。
しかし一方この期に及んでもユダヤ人たちは汚れないようにとつとめている。片や嫉妬のために何としてもイエスを抹殺しようとする用意周到な殺人鬼、そして片や飽くまでも律法を守ろうとする敬虔な宗教者なのだ。
この時は丁度過ぎ越しの祭りの時期だった。過ぎ越しの食事をするためには潔くないといけなかった。異邦人のすみかは不浄であると言われていたそうなので、そこに入ることを嫌っていた。なので総督の官邸にも入らなかった。
また過ぎ越しの祭りは種入れぬパンの祭りでもあった。その準備にパン種狩り、という行事があって、各家庭から集めたパン種を燃やす行事があったそうだ。そんな時にパン種がある異邦人の家に入った場合は、夕方まで不浄でなり、沐浴をしてはじめてきよくなると考えられていた。だから総督の官邸に入らないようにするということは、神の律法をきちんと守るということだった。そんな言わば信仰深いユダヤ人たちなのだ。律法はしっかりと、それこそ命がけで守ろうとしている敬虔な人たちなのだった。
ユダヤ人たちも一所懸命に神を信じようとしていたと思う。そのために律法を一所懸命に守ってきたのだろう。でもそのことで、自分たちの意に沿わないものを除け者にしてきた。律法を守らないものを排除してきた。あいつらは罪人だ、と言ってきた。そして自分たちの良いなりにならないイエスを処刑しようとしている。
真理
イエスとピラトとの問答の中で、わたしは真理を証しするために来た、と言った。真理とは何かと考えると難しい。
イエスは言う、真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。私たちにとっての真理とはイエスの声を聞くことだ。そしてイエスは、愛する者となるように、愛し合う者となるようにと言われている。
一見敬虔な者たちが殺人を計画している。恐ろしいことだ。なぜこんなことになってしまっているのか。
でもこれはユダヤ人の問題と言い切れない、他人事とは言えないことなのではないかと思う。
医者は病気を治すのではなく病人を治さないといけない、というようなことを聞く。病気を治すことばかりに一所懸命になってしまって、そこにいる人間のことが見えなくなり、その人の苦しみなんかが見えなくなってしまってはいけないということだろうと思う。
教会は人間が見えているのだろうか。私たちには人間が見えているだろうか。共に喜び、共に泣いているだろうか。
イエスは愛し合いなさいと言われた。それは人間を、ひとりひとりを大事にするということだろう。人を大事にするということは、その人の喜びや苦しみや悲しみや嘆きや怒り、その人の持っているそんな気持ちを大事にすることなのではないかと思う。