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礼拝メッセージより
「主の栄光」 2009年3月29日
聖書:出エジプト記 40章34-38節
幕屋建設
25章からのところで、主がモーセにこれこれこういう風にして幕屋を作りなさいと命令している。そして35章のところから、その主の命令を民に伝えて実際に幕屋を作っていったことが書かれている。25章以下の所では、結構細かなところまでこれこれこうしなさい、という命令が書かれていたが、35章以下の所をみると、それとほとんど同じことが書かれていて、こうしなさいというところが、こうしたという風に変わっているだけで内容的には同じことがまた出てきている。例えば、25:10以下に箱を作りなさいという命令がある。「アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦2.5アンマ、横1.5アンマ、高さ1.5アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。」とある。それを実際に作ったことが37章1節以下に書かれている。「ベツァエルはアカシヤ材で箱を作った。寸法は縦2.5アンマ、横1.5アンマ、高さ1.5アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作った。」という風に、作りなさい、作る、という言葉がそのまま作った、に変わっただけ、というような文章が繰り返し出てくる。少しは違うところもあるみたいだが、基本的にはそのままの文章がもう一度出てくる。ご丁寧にそこまでしなくてもと思うくらい。
そして39章と40章には、「主がモーセに命じられたとおり」という言葉が繰り返し出てくる。39章で9回、40章で8回も出てくると聖書教育に書いてあった。
35章以下のところからのところは、主がモーセに命じられたとおりに幕屋を作った、と書けばそれで終わりのような気がする。けれども敢えて、これはこのようにした、こうやって作った、と主の細かな命令をもういちどご丁寧にもう一度書いたのは、その主の命じられた通りにしたということを、具体的に全部伝えたかったのかな、と思う。ただの報告書ならば、主の命令通りに作った、というだけでいいと思うけれども、ここはこんな風に命令通りに作りました、ここはこうやって命令通りにしました、と言いたくて仕方なかったのかもしれないという気がしてきた。こんなにきっちりできた、ということが嬉しくて、それを伝えたくて仕方なかったのかな、なんて思う。
幕屋を作る材料は民がささげたものだった。そして民の技術と才能を持って神の命令通りの幕屋を作ることができた。自分たちの持っているもので神の命令に応えたのだ、という喜びを伝えたかったのかもしれないと思う。
39章までで幕屋を建設する準備が終わり、40章では幕屋を建てることになる。第一の月の一日に建てなさい、と言われている。17節を見るとそれは第二年の1月1日と出てくる。エジプトを出てきた日が1年1月1日なので、丁度1年後に幕屋が出来たということになる。出エジプトから1年をかけて、イスラエルの民は主に犠牲を献げる準備を整えたということなんだろう。いつも主との繋がりをもって生きる体制がここで整ったということなんだろうと思う。この幕屋は移動できるものだった。移動するためにこういう形になったみたいだ。イスラエルの民は約束の地へ向かう40年という長い旅が始まったばかりだった。彼らは幕屋を携えて、神を礼拝しながら、神との繋がりを確認しながら、神の声と聞きながらその長い旅を始める。幕屋はその支えとなるものだったのだろう。
栄光
そして「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」と書かれている。雲は、主がそこに現れたことのしるしだそうで、雲が幕屋を離れて昇ると民は出発して、雲が離れて昇らない時は出発しなかった。雲が離れて昇るってことは天気がいいってことかななんて思ったり。
そして主の栄光がその幕屋に満ちたというのはどういうことなんだろうか。栄光とは、もともと重みという言葉だそうだ。幕屋に満ちる栄光、重みというのはどういうものなんだろうか。威厳がある人に対して、あの人がオーラがあるというような言い方をすることを聞くことがあるが、そんな感じなんだろうか。満ちるということは堅くないものなんだろうか。液体か気体のように流れるこんでくるような感じなんだろうか。霧のように上から降ってきていっぱいになる、というようなものだったら分かりやすいのにと思う。それだったら満ちているということもわかるのにと思う。
キリスト教辞典によると、「神の栄光とは,神の本質と属性の輝きのことである.神は人格的な方であるから,その栄光も愛,恵み,まこと,知恵,力,義,聖さなどにかかわる人格的なものである.また,神は無限な方であるから,その栄光も無限である.それは神の存在に固有なものであり,神の臨在とみわざにおいて現される.」と書いてあった。
なんだかよく分からない。目にも見えない。何なんだろう。なんだかよく分からないけれど、私たちの心に、あるいは魂に、働きかける神の力、私たちを圧倒するようなというか、包み込むような、そして私たちの心に愛や喜びを生まれさせる神の力といったようなものなのかなと思う。
私たちの教会も幕屋と似たものだろう。その神の栄光にどっぷり浸かるために、神の圧倒的な力に抱きかかえてもらうために、教会はあるのだろう。神の栄光に、神の力に包み込まれるように、と私たちは招かれているのだろう。
イスラエルの民は幕屋と共に荒れ野の旅を続けた。神の栄光を受けて苦しい旅を続けた。私たちも神の栄光を受けて、人生の旅を続けなさいと呼ばれているのだろう。失敗したり挫折したりの人生かもしれない。しかしその都度神を見上げ、神に力を受け、神のすごさに圧倒され、神に聞き従いつつ神と生きるように、と招かれている。