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礼拝メッセージより
「随意の献げ物」 2009年3月22日
聖書:出エジプト記 35章20-29節
随意
随意の献げ物という言葉が出てくる。随意なんてなんだか難しい言葉だなと思いつつ、そう言えば最近よく耳にする。
役所やなんとか法人というところが、ある特定の会社と随意契約をしていた、なんていうニュースをよく聞くような気がする。
ちょっと調べてみると、随意契約ってのは誰かが決めた会社と契約することみたいで、本来国や公共団体は随意契約ではなく、競争入札をして安いところと契約をしないといけないということのようだった。入札をしないで随意契約をすることによって、結局高い金額で契約をすることになって、その分税金を余計に使ってしまうということらしい。では誰がその随意契約をする相手を決めるのかということで、その便宜を図ってもらうために政治家に献金をしていたのではないかなんてことが問題になっているようだ。
ところでその随意っていう言葉が聖書に出てくるけれども、では随意ってどういう意味なのかと思って調べると、「束縛や制限のないこと。思いのままであるさま。かって。」と書いてあった。随意の献げ物とは、束縛や制限のない、思いのままの献げ物ということのようだ。ということで昔の訳をみてみると、「自発のささげ物」と訳していた。こっちの方がよっぽど分かりやすい気がするけど。
幕屋
民が自発のささげ物をしたということが今日のところには書かれているわけだが、ではどうして自発のささげものをするようになったのかというと、神がモーセを通して幕屋を作りなさいといわれたからだった。
そもそも幕屋を作れという命令はモーセがシナイ山で十戒などの戒めを聞き、民が神の戒めを守りますと約束した後、戒めと教えを記した石の板を授けるからということで、モーセがまた山に登った時に神からモーセに語られたことだった。
しかしモーセが山にいる間に、イスラエルの人たちはモーセがなかなかシナイ山から戻ってこないので、金の子牛を作ってそれを神として拝んでいた。
モーセは幕屋をどう作るかということを民に伝える前に、民が神の命令に背いて像を作って拝むということをしてしまったために、神になんとか赦して欲しいと懇願することになった。そしてどうにか赦して貰い、そこで改めて神からの幕屋の作り方を民に伝えることになったということのようだ。
この命令の最初から、心からささげようとする者は、これこれのものを持ってきなさい、と言われていることが35章5節に書かれている。もちろんこれは主がモーセに語られた時にもそのように言われていることが25章2節に書かれているとおりだ。
神は最初から、自発的なささげ物によって幕屋を作るようにと言われている。神の命令だからということでいやでも出せ、おまえの割り当てはこれだけだからなんとしても出せ、という風には言っていない。
そんな風に自発的なささげ物に頼っていて大丈夫なのかと思ってしまう。しかしイスラエルの人たちはその自発のささげ物、随意のささげ物をどんどんしたというのだ。36章には、そのささげ物が充分にあったので、もうしなくていいとモーセが言ったということが書かれている。
金の子牛を作った民が、今度は幕屋を作るために充分すぎるほどのいっぱいのささげ物をしたというのだ。
幕屋
幕屋とは神との接点のようだ。神はシナイ山でモーセに語り、戒めを告げ、石の板を与えた。しかし幕屋を作るということは、これからはシナイ山ではなく幕屋で神との繋がりを持つ、神との繋がりを確認するということになる。それまでは遠い山の上でしか出会うことのなかった神と、これからは自分たちのすぐそばで出会うことができるようになる、ということだ。
モーセがシナイ山に行っていない間に、金の子牛を作り、それを神として礼拝するという、神の戒めに背いたことをした民であった。それはモーセがいなくなったから、もう生きているかどうかも分からないから、もっと分かりやすい目に見える神を自分たちで作ろうということだったのかなと思う。しかしそれは、自分たちをエジプトでの奴隷生活から解放してくれて、エジプトから救い出してくれた主を忘れ、主の導きを無碍にすることだった。そのことを神に怒られ、シナイ山から帰ったモーセに烈火の如く怒られて、イスラエルの民は改めて主を見上げて、主の大切さを確認したのではないかと思う。間違ったことをしてしまったという思いは相当強かったのではないかと思う。
しかしその後、改めて幕屋を作れと言う命令を主から聞いた。それは自分たちが主の命令に背いて金の子牛を神として礼拝したという間違いを赦されたことを知り、そんな自分たちと主がいつも共にいてくれるということの見えるしるしを与えられることでもあったのだろう。
随意のささげ物、自発のささげ物によって幕屋が作られていったということは、民がそれまでの主の導きを思い返し、主とのつながりの大切さを再確認したからなのだと思う。間違いを犯した自分たちだが、それでも主が共にいてくれることを喜んだからなのだと思う。
ささげ物
そのささげ物には幕屋を作るための材料となるものをささげる人もいたし、知恵をささげる人もいた。知恵というのは、ものの作り方とか、作る技術というような意味のようだ。兎に角自分の持っているものを、品物であったり知識であったり技術であったり、それぞれに持っているものを自発的にささげることによって、この幕屋はできあがってきた。
ただ神の命令だから、これはあなたの割り当てだからということで供出したわけではなかった。だからきっと材料をささげた人にしても、知恵をささげた人にしても、自分たちの幕屋なのだという意識がもてたんじゃないかと思う。自分たちの大事な幕屋だ、という意識は強かったんだろうと思う。誰かに作ってもらって与えられた訳ではなく、自分たちの持っているもので作ったということで、きっとその分、神との繋がりも強くなっていったんじゃないかと想像する。
礼拝
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」ローマの信徒への手紙12:1
私たちの教会でもささげなさいと言われている。そしてささげることが礼拝なのだと言われている。しかも自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい、と言われている。自分自身をささげなさいと言われている。自分の持っているもの、それは献金とか、自分の技術や才能などをささげるということでもあるけれども、基本的には自分自身を、自分の全部をささげるということ、それが礼拝なのだといわれている。
自分自身をささげるということは、自分を全部神にまかせるということなんじゃないかと思う。
多くの人が神にいろんなことをお願いする。今度受験するのでよろしくとか、この病気を治してほしいとかお願いする。でもそういう時って、そのことだけをお願いする、自分の手に負えないことだけをお願いするけれども、基本的には自分だけで、自分の力だけで生きているようなことが多いような気がする。
でも主に対しては、神に対しては、私たちは私たちの一部だけではなく全部を、私たちの人生全部を、生きることも死ぬことも含めて全部を託してしまうことができるのだと思う。
神に全部を託すことができる、神が人生の全てを支えてくれている、だからこそ、私たちはまた、自分自身をささげることができるのだろう。自分自身を献げるということは、いつも神に支えられ、神と共に生きていくということだろう。
そして人生を全てを神に支えられているから、私たちは私たちの全てを自分自身を献げることができる。
そうやって自分自身を、自分の財産や才能や、そして時間をささげることで私たちの教会も出来上がっている。そうやってささげるところに神との繋がりが出てくるし、そこに喜びがあるのだと思う。だからこそ自分自身をささげなさいといわれているのだろう。