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礼拝メッセージより
「神の計画」 2009年1月18日
聖書:出エジプト記 6章28節-7章7節
モーセ
神がエジプトで苦労しているユダヤ人たちを救い出すためにモーセをファラオのもとに遣わすことにした。そのことを最初にモーセに告げたのは、モーセがユダヤ人をいじめていたエジプト人を殺したことから、エジプトの王ファラオから逃げてミディアンで生活している時だった。ミディアンで結婚し子どもも生まれて、すっかり落ち着いている時だったようだ。
モーセは神から、あなたがユダヤ人たちをエジプトから導き出す、と言われても、何も言わずに従ったわけではなかった。「わたしは一体何者でしょう。」、「神さまの名前を聞かれたら何と答えましょうか」。やっぱりそんな事は出来ない、口べただし、と反論している。
出来ない、出来ない、と言っているモーセに対して神さまは一つ一つ答えている。それでもモーセはなかなか決断出来ない。これに対して神さまはいろいろなしるしを見せて、モーセを勇気づけようとする。モーセが手に持っていた杖を蛇に変えて、その尾を取るとまた杖にもどるということを見せている。次に手をらい病にするしるしを見ても、まだモーセの不安は解消されない。神に従う決心ができない。行動を起こす決断が出来ない。あなたが話すべきことは私が教えるから大丈夫なんだ、と神さまは言うが、なおもモーセは13節にあるように「他の適当な、ふさわしい人にしてください。」と言う。それに対して神さまはとうとう怒っている。怒っているけれどもそのことでモーセを見放すわけでもなく、罰を与えるわけでもない。怒ったけれどもモーセに譲歩してアロンがあなたの代わりに話すから心配するな、とたしなめている。
もともとモーセは、ユダヤ人をいじめるエジプト人を殺したためにファラオに命を狙われてエジプトから逃げてきていた。その時の王とは別の王になってはいたようだけれども、そんないやな思い出のあるところへわざわざ帰っていけということでもある。そしてエジプトの王に、イスラエルの民をエジプトから去らせるように説得しないといけないというわけだ。どうなることかといろいろ心配するのも当然だろう。
モーセは自分はそんなことをするにはふさわしくない人間であると誰よりも思っていたようだ。どうも口べただったか、吃音だったという説もあるみたいだが、どうやら人と面と向かって話しをするのが苦手だったらしい。結構小心者だったのかもしれない。その割りには神に対してはいろいろと文句を言っている、という気はするけれども。
出発
それでもモーセは神の命令通りにエジプトへ向かい、アロンと出会い、まずはイスラエルの長老たちのところへ行き神の言葉を告げ、しるしを行った。そうすると、イスラエルの民はモーセの言葉を信じて神を礼拝した、と書かれている。
そして遂にエジプトの王ファラオのもとへ出かけていったことが5章に書かれている。ファラオに向かって、「イスラエルの神、主がこう言われました、わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい、と。」
これを聞いたファラオは、主とは何ものか、どうしてそんなものの言うことを聞かないといけないのか、主など知らない、イスラエルの民を去らせはしない、と答えた。モーセとアロンは、主に犠牲をささげさせてください、そうしないと神は疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう、と食い下がる。けれどもファラオは、イスラエルの人たちが仕事をさぼるための口実だと思ったようだ。当時イスラエルの人たちはわらを与えられてレンガを作る仕事をさせられていたらしいが、ファラオは、あいつらは怠け者だから犠牲をささげさせろなんて言うのだ、これからはわらも自分たちで用意させろ、作るレンガの量も減らすな、という命令を出してしまった。
イスラエルの人たちはモーセとアロンに対して、あんたたちが余計なことを言い出すから仕事が増えてしまったじゃないか、どうしてくれるんだ、と文句を言った。
モーセは、神の命令だからといやいやでも従ってきたのに、その結果は民を救い出すどころか余計に苦しめてしまっただけじゃないか、この俺が神の言葉をファラオに伝えるなんて、イスラエルの民をエジプトから約束の地へ導き出すなんて、そんなのはやっぱり間違いなんだ、やめときゃ良かった、神の命令だからと思ってやったのに、何でみんなから文句を言われないといけないのか、こんなことやってられない、そんなことを考えたんじゃないか。そして神の対してもそう訴えたのではないかと思う。
ファラオがなかなか言うことを聞かないということは最初の時にも言われていたことだった。だから今回ファラオが、イスラエルの人たちに犠牲をささげさせて欲しいという願いを拒否したことは予定通りだったのかもしれない。神にとっては想定内の出来事だったのかもしれない。
しかもそのためにイスラエルの民を苦しめることになり、彼らから反発を食らうことになったことは、モーセにとってはとても大きなショックだったに違いない。自分がしたことによって少しでも成果が出れば、成果が見えれば自信もつくしやる気も出てくる。しかし自分がしたことで状況が悪くなってしまったのだ。自信もやる気もなくなってしまったに違いないと思う。
不調
わたしは主である、わたしが語ることをエジプトの王ファラオに語りなさい、わたしは奴隷となっているイスラエルの民を救い出す、というような言葉が出エジプト記には何度か出てくる。神はモーセが弱気になるたびに改めて彼に使命を告げているかのようだ。
そして6章28節以下にも改めて、わたしがあなたに語ることをファラオに語りなさいと言われている。ここではモーセが語ることを兄のアロンが代わってファラオに語ること、けれどもファラオはなかなか言うことを聞かないこと、しかし最後にはイスラエルの人たちを救い出す、そしてそのことからエジプト人が、主が神であることを知るようになる、と言われている。ファラオがかたくななのも全部神の計画なのだ、だから心配するな、わたしがあなたを遣わしているのだから、と神さまはことあるごとにモーセに語っていたということなのかもしれない。
順調にいかないことも、思うようにいかないことも、帰って悪くなるように見えることもあるだろう。しかしその背後には大きな神の計画があるのだ。だから思うようにいかないことがあっても、失敗することがあっても心配するな、大丈夫なのだ、わたしが支えているのだ、と言っているのかもしれない。
神に従っていくと何でもうまく順調にいく、とは限らないというのが現実だ。でもそんな時はやっぱり不安になり自信もなくなる。うちの教会も今は人数も少ないし献金も減っているし、何か元気もないし、なんだか牧師をやっているのは間違っているんじゃないかという気になっている。モーセが言うように、わたしには何もできません、知恵も力も元気もありません、もう辞めていいでしょうか、と言うような気持ちでいる。
神さまがモーセに対して繰り返し彼の務めを告げているところを読みながら、自分の務めは何なんだろう、神の命令は何なんだろうと改めて思い返している。
お前がやるのだ、と言われているんだろうか。何をしろと言っているのだろうか。祈ってください。