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礼拝メッセージより
「あなたと共にいる」 2009年1月11日
聖書:出エジプト記 3章1-15節
躊躇
モーセが生まれた時代、エジプトではヘブライ人、ユダヤ人とも言うけれども、ヘブライ人が多くなり、力を持つことを恐れたエジプトの王ファラオは、ヘブライ人に過酷な労働を課し、ついにはヘブライ人の産む男の子をナイル側にほうり込むように命令した。ヘブライ人であったモーセも川に流されたが、皮肉なことに王女に助けられ、赤ん坊の時には実の母が乳母として母乳を与えることとなった。多分乳離れしてからは王女の下で王宮で育ったのだろう。
モーセがどのようにして自分がヘブライ人であることを知ったのかはよく分からない。王女が教えたのか、あるいは他の人が告げ口したのか、聖書には書いてないようだ。2:11ではモーセが成人したころに同胞のところへ行って、彼らが重労働をしているのを見た、と書かれているので、その時には既に自分のことをヘブライ人だと知っていたのだろう。その時、同胞のヘブライ人を打っているエジプト人を、誰もいないのを確かめて殺してしまう。
誰も見ていないと思っていたけれどもそのことがばれてしまい、モーセはファラオに追われることになってしまう。ファラオは王女が育てているモーセがヘブライ人であることをいつ知ったのだろうか。この事件が起こった時だったのだろうか。
モーセは王女の下で暮らすという、多分裕福な生活からも追われてしまう。ここで人生がまったく変わってしまう。モーセはミデアン〔シナイ半島の東にあるアカバ湾の東側〕に逃げてきた。そしてそこで羊飼いとなり結婚し子どももできる。きっと安定した生活を送っていたのだろう。死ぬまでそこで過ごすと思っていたのではないかと思う。
モーセがミディアンに来てから何年経ってからだろうか。その後モーセがファラオに会ったのが80才の時だったと書いているので、この時は80才近かったのだろう。兎に角長い年月が過ぎて、モーセを捕まえようとしていたファラオも死んでから、神はモーセに語りかける。3:7-10「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
神から突然の命令が下った。しかしモーセは神の命令を聞いてすぐに、ハイそうですか、と従ったわけではなかった。最初のモーセの返事は3:11「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
その後もいろいろと神さまに対して反論を繰り返す。「わたしは一体何者でしょう。」、「神さまの名前を聞かれたら何と答えましょうか」。結局そんな事は出来ない、と言っている。結局8回神に反抗するそうだ。
共にいる
神はそんなモーセに、「わたしは必ずあなたと共にいる。そのことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と言った。
あなたと共にいる、というのはクリスマスの時にも出てくる言葉だ。神がいつも共にいる、それこそがモーセを遣わす証明であるというのだ。
神が共にいるとはどういうことなのだろうか。共にいると言われても神は見えない。共にいると言われても、神が私に代わって何でもかんでもしてくれる訳ではない。いやな面倒なことを神が代わってやってくれるわけでもない。神が私に代わって試験を受けてくれるわけでもないし、神が私の代わりに掃除も洗濯もしてくれる訳でもない。私の嫌いな奴を神がやっつけてくれるわけでもない。神が共にいるということはどういうことなんだろうか。神が共にいても、私がしないといけないことは結局は私がするしかないようだ。
神が共にいても、ファラオに会いに行くのはやはりモーセなのだ。モーセの前に神が現れて、その神の陰に隠れてついていくというわけではない。ファラオと会うのは飽くまでもモーセなのだ。
神が共にいるとはどういうことなんだろうか。しかもそれがモーセを遣わすしるしであるということはどういうことなんだろうか。
僕はなにかちょっと大変なことがあるとすぐに落ち込む。落ち込むと誰にも会いたくないし話しもしたくない。説教が終わった後も本当は一人で狭いところに籠もりたいと思う。昔、理由は忘れたけれどすごく落ち込んでいたことがあった時、どういうわけかそんな時に限って久しぶりに電話をしてくる奴がいた。そして話しをしているうちにだんだんと元気になってきたことがあった。
誰かとの繋がりをもつこと、そのことを再確認できた元気になっていけたのだろうと思う。誰かから感謝されたり、誰かから誉められたりすることで突然元気になることも多い。
神は姿は見えない、私たちの目の前に現れて私たちの代わりをしてくれるわけでもない、けれどもいつも私たちの心の中にいて、私たちの心を支えてくれている。大丈夫だ、あなたが大切だ、愛している、と語りかけてくれている。そんな神との繋がりがある。いつも繋がっている、それが神がいつも共にいるということなんではないだろうか。
神が共にいるから、私たちは自分のすべきことをやっていけるのだろう。