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礼拝メッセージより
「過ぎ越し」 2009年1月25日
聖書:出エジプト記 12章21-42節
災い
モーセはイスラエル人をエジプトから脱出させるためにエジプトの王、ファラオのもとへ行き交渉する。しかし神から言われていたとおりその交渉は成功しない。ファラオは心を頑なにして、余計に辛い仕事をさせる。そうすうとイスラエル人はモーセに対して不満をつのらせる。
そこで神はいろんな災いをエジプトに下す。川の水を全部血に変えるとか、蛙を大発生させる、ぶよやあぶの大発生、それから疫病を起こしたり、腫れ物ができるようにしたり、雹をふらしたり、いなごを大発生させたり、国中を三日間暗闇にしたり。
ファラオは大変な事態になるとモーセの言うことを聞く、といいながら、ちょっと事態がよくなり一息つくと、やっぱり駄目だ、というようになる。
ファラオがなかなか言うことを聞かないのは神さまがファラオをかたくなにするからだと言われている。モーセにとってはつらいことだったのではないかと思う。モーセは神さまが言われるようにただそれに従っていただけ、かもしれないけれども、それでも、ファラオに会いに行くのはモーセ自身であり、アロンが代わりに語ったのかもしれないけれども、そのアロンに語ることを告げるのもモーセだったはずだ。神との直接繋がりがあるのはモーセだけだった。そしてイスラエル人をエジプトから救い出すためにファラオと交渉しているのに、なかなかうまくいかないわけだ。
自分のやっていることの成果がなかなか目に見える形で現れない時ってのは不安になったり自信をなくしたりする。神さまはファラオの心を頑なにする、と言っていたからその通りになっているのだろうけれども、本当にエジプトを脱出できるのだろうか、というような思いにもなったんじゃないかと思う。神さまはなんでそんな大変な思いをモーセにさせたのだろうか。モーセを鍛えたのだろうか。あるいはその後、約束の地へと向かう苦難の旅を耐え抜くための準備だったのだろうか、なんて思ったり。しかしモーセも投げ出さずによく耐えたよなと思う。やっぱり最初に散々ごねてたのが良かったんじゃないだろうか。そんなことできない、こんなことになったらどうしよう、やっぱり他の人にしてくれ、と目一杯弱音を吐いたことが良かったんじゃないだろうか。
そして最後に、エジプト中で初めて産まれた子、人間も家畜も何もかも、初めて産まれた子が死んでしまうという災いを起こす、と神は言う。そしてやっとイスラエル人はエジプトを脱出することができる、というのだ。
しかし柱と鴨居に小羊の血、あるいは羊や山羊でもいいと書かれているが、その血をぬっている所だけは、その災いに遭うことがない、そこだけは災いが通りすぎでいく、過ぎ越していくと神は約束される。
こういうところを見ると、神さまが町の中の通りを歩いているようなイメージが湧いてくる。通りを歩いて血が塗られているかどうかを一軒一軒見てまわっているかのような感じがする。兎に角血が塗られているイスラエルの家はこの災いが過ぎ越していった。しかし血が塗られていないエジプトの家では初子がみんな死んでしまった。そしてファラオは、お前達はエジプトから出て行ってくれ、と言ってついてエジプトを出ることができるようになった。
記念
そしてこのことを記念として過ぎ越しの祭りをおこなうように、と神は言われる。毎年そのことを思い出すために祭りを行うように、という。これこれこういうことがあって私たちは助けられた、救われたのだということを次の代の者へと語り伝えなさい、というのだ。さんざん苦労したけれども、神はそんな自分たちを見捨ててしまっていたわけではない、そのことを後生に語り伝えなさい、そして記念の祭りを行いなさい、と言われる。
ユダヤ教の人たちは今でもこの過ぎ越しの祭りを続けているそうだ。
小羊
コリントの信徒への手紙一 「5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。 5:2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。 5:3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。 5:4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、 5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。 5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 5:8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」
かつては小羊の血によってイスラエル人を救った神は、今度はイエスの血によってあらゆる民を救われたと聖書は語る。
そして出エジプトの時には急いで出発するために、パン種を入れないパンを焼くようにと言われていたように、キリストに出会ってからは、キリストを知らなかった時の古いパン種をパンに入れないようにしなさい、という。神に従うのではなく、神の御心ではない他の何かに従うのではなく、私たちを縛り付けるような何かに影響されるのではなく、そんなものを取り除いていようではないか、とコリントの信徒への手紙は勧める。
私は駄目だ、私はできない、私には無理だ、どうせ私はくだらない人間なんだ、誰にも愛されない、価値のない人間なんだ、そんなパン種、いろんな私たちを苦しめる思いに私たちは支配されている。しかしそんなパン種はもうきれいに取り除こう、という。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのだ、というのだ。キリストが過ぎ越しの小羊として屠られたから、もう古いパン種はもう取り除かれているというのだ。もうそれに縛られてはいない、解放されているというのだ。だから、悪意や邪悪なパン種を用いるようなことはもうやめよう、そうではなくパン種の入っていない純粋で真実のパンとして過ぎ越し祭を祝おう、つまり神が私たちを救ってくれたこと、愛してくれていること、いつも共にいてくれていることを祝おう、と言う。
イスラエル人は過ぎ越し祭を通して、かつて自分たちを神が救ってくれたことを思い出してきた。神が自分たちを見捨てはしなかったことをことある毎に思い出してきた。私たちも主の晩餐を通して、イエスの十字架を思い起こす。神がイエスの命をかけて私たちを救ってくれたこと、神が私のことを愛していること、大事に大切に思ってくれていることを思い起こす。
私たちはただ儀式を守らないといけないから主の晩餐をするわけでもないし、礼拝しているのでもない。休んではいけないから礼拝しているのでもない。礼拝することで、神の言葉を聞き、神のわざを思い起こす。イエスの十字架を思い起こす。神の言葉によって赦されていることを知る、そして神の言葉によって生かされ、励まされ、慰められる、そのために礼拝する。そして私たちはイエスの復活の日である日曜日に礼拝する。主の日である日曜日に礼拝する、だから主の日の礼拝、主日礼拝と言いたい。だから週報にも、聖日礼拝ではなくあえて主日礼拝と書いている。
よく礼拝を守る、という言い方をすることがある。聖日を守るとか。ある人が、守るといい方はしたくない、と言っていた。礼拝はもっと積極的なものなのではないか、というような事だったと思う。同感である。守るというと、日曜日は一日が特別な日で、仕事をしてはいけない、余計なことをしてはいけない日、決められた礼拝をしなければいけない日というような、なにかそんな掟を、きまりを守る日のような感じがする。けれども礼拝は、守らなければいけない掟ではなく、そこで神の言葉を聞き、神の御心を知り、神の言葉によってそこから一週間を始めるというようなものだろうと思う。そこで救いの言葉を聞く、イエスの十字架と復活を思い起こす時だろうと思う。だから、何となく守らないといけないというようなイメージがある聖日ではなくて、イエスの復活の日、イエスの日、主の日であるということをはっきりとさせる主日という言葉を使いたいと思う。
だから日曜日は、きまりを守らないといけない面倒な日ではなく、喜びの日、慰めの日、救いの日なのだろう。イスラエル人たちが過ぎ越しの祭りを通して神の救いのわざを思い起こしたように、私たちは礼拝を通して、主の晩餐を通して、イエスの救いの業を思い起こしていこう。そして神の愛と赦しを聞き、その言葉によって力づけられ生かされていこう。そんな礼拝を作っていきたいと思う。