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礼拝メッセージより
「神の計画」 2009年1月4日
聖書:出エジプト記 1章15節-2章10節
導き
私たちは何故今この礼拝にいるのか。そもそもどうして今呉にいるのか。呉に生まれたから、仕事の都合で、学校の都合で呉に来たから。理由はさまざま。でもではなぜそれがほかの町ではなく呉なのか。よく考えるとはっきりとした答えがあるわけではない。なんの因果かここにいる、というのが一番正確な答えかもしれない。どうして今この時代に生きているのか、なんてこともよくはわからない。自分がこの時代がいいと思って選んだわけではない。いわばこっちが頼んだわけでもないのに生まれさせられた、といったようなものだ。もっといい時代に生まれたかった、なんてことも思わないでもない。
モーセ
イスラエル人であったモーセがなぜエジプトで生まれたのか。それは創世記に書かれている。いろんないきさつがあってのことだった。先祖であるヨセフがエジプトへ行ったことからのようだ。そしてそのヨセフがそもそもエジプトへ行くことになったのは、兄弟間で起こった喧嘩が発端だった。兄弟喧嘩からエジプトへ行くことになり、そこからイスラエル人がエジプトで暮らすようになった。そんな関係でモーセはエジプトで生まれることになった。
モーセにとっては大変な時代であった。イスラエル人の男として生まれることが命の危険にさらされるという時代だった。モーセにしてみればなにもこんな時代に生まれなくても、というようなことだっただろう。
やがてイスラエル人を脱出させるための指導者となっていくそのモーセはそんな大変な時代に生まれた。しかし不思議な出来事が重なることでモーセは無事に育っていった。生後三ヶ月までは親元にいることができた。男の子は殺さなければならないというエジプト王の命令に背いての行動だった。しかし隠しきれなくなった親はモーセを川に流すことにした。たまたまそのモーセを王女が発見した。彼女はどういうわけかモーセを自分の子供として育てることにしたというのだ。王の命令に背いてまでイスラエル人の男の子を自分の子どもとするというのはどういうことなのだろうか。それほどかわいかったのだろうか。それにしても王女であったからこそ出来たことなのだろう。
ちょうどそこへ姉が登場する。そして乳母を呼んできましょうか、なんてことをいう。それもヘブライ人の乳母を、なんてことをいう。そんなこと言って大丈夫なのか、ヘブライ人の男の子ということがばれないのか、そして殺されてしまわないのか、と心配になってしまう。ところがその策略は無事に功をそうして、その日のうちにモーセは母親の元へ帰ることになる。しかも手当てまでつくというおまけつきだ。自分の子どもの世話をするのに王女から手当てをもらう、なんていううまい話があっていいのか、と思うほどだ。
モーシェ
モーセの名前は王女がつけた。引き上げた、というマーシャーという言葉からつけられた。ヘブライ語ではモーセというよりも、モーシェという音に近いそうだ。
計らい
王がヘブライ人を驚異に思うようになったことから、ヘブライ人の男の子は殺されることとなった。きっと殺された子どもも数多くいたことだろう。時の権力者によって、その権力を守ろうとすることによって犠牲となる者がいた。何とも理不尽なコトだ。この世はそんな理不尽が渦巻いているといえるのかもしれない。神がいるならどうしてそんなことが起こるのか、というように思うこともある。悪い者がいい思いをして、いい生活をしている。そんなことがあっていいのかと思う。悪巧みに長けている者がいい思いをする世の中なんてのは間違っている。そんなことをどうして神は許すのか、と思う。あまりにひどいことが起こると、どうして神はそんなことを許すのかと思う。
何とも理不尽な世の中である。しかしそんな理不尽な世の中に神は介入してきた。神が見放したからこういう世の中になっているのではなく、こんな世の中にも神は介入している、見放してはいない、モーセの誕生の物語はそれを語っているようだ。
女性
生まれたばかりのモーセを救ったのは女性たちだ。女性という社会的には比較的無力な者が神の計画の中心人物となっている。彼らを通して神は働かれる。
男は力ずくで自分の思い通りにしようとする。自分が力を持てば何でも思うようになると思っている。王がまさにそうだ。しかし神は無力な者を通して働かれる。そこで奇跡を起こす。それは注意深くみていないと気付かないような奇跡である。一つ一つの出来事はたまたま起こったに過ぎないようなコトだ。たまたま王女がやってきて、たまたまモーセを発見して、たまたま乳母の話が聞き入れられて、そんなたまたまの積み重ねのようなところでモーセは救われ、イスラエルは救われていった。神はそんな仕方で私たちに関わっておられるようだ。
危機
イスラエル存亡の危機は無力な女性を通して回避されるコトになった。滅亡へと向かっていくと思われていた時、しかし神はそこで計画を持って働かれていた。表だって誰の目にも見えるような仕方ではない、けれども神は見えないところで働かれていた。
いかにも不条理な世の中に私たちも生きている。どうして私がこんなに苦しまないといけないのか、どうして私がこんな病気になるのか、どうして私達がこんな大変な目に遭うのか、そう思うことも多い。神がどこにいるのか、どこでどう働かれているのか、そんな思いになることが多い。
でも神は見えないところに計画を持っていた。一人の赤ん坊を通してイスラエル民族を救い出すという大きな計画を持っていた。そしていろんな人たちがその計画に知らない内に関わっていた。一人の赤ん坊の命を守ることを通して、神のその見えない計画に関わっていった。それはそれぞれの人たちがそれぞれにできることをやっていった結果だった。一人一人がしたことは大したことではなかった。でもそれぞれが自分の出来ることをやっていった積み重ねがモーセの命を救い、イスラエル民族を救い出すことへとつながっていった。
神は権力をもっていない女性の働きを通して神の計画を実行していったように、無力な私たちの働きを通して、大きな働きを計画されているかもしれない。無力な私達を通して神は世界を変えるような偉大な計画を持たれているのかもしれない。そのためには、私たちそれぞれができることをやっていくことだ。こんなことしたって何の意味もない、何の効果もないと思うことも多いし、また神の計画もなかなか見えないけれども、それぞれに自分は何をしていけばいいのか、何ができるか、祈りつつ聞いていく、そして自分を献げていくことが大事なんだろう。そんな私たちの働きを神がどう活かしてくれるのか、楽しみにしつつ神に従っていけたらいいな。