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礼拝メッセージより



「待つ」 2008年12月28日 
聖書:ルカによる福音書 2章22-38節


 すぐ前の21節でイエスに割礼を施したことが出てくる。割礼とはユダヤの律法によれば、男の子は生後八日目に割礼を受けねばならない。その子はこの儀式によって、神と契約を結んだ民の一人となる。そして「幼な子はイエスと名付けられた」。割礼を受けるときに父が子に名前をつける習慣があり、親族一同にとってもそれは大きな祝いの時だった。原文では「イエスと呼ばれた」。

 そして両親はきよめの期間を過ぎた時にエルサレムに連れていった。レビ記12章によれば、男の子を出産した場合40日、女の子の場合は80日がけがれる。この期間がすぎたあと、エルサレムで母親は一歳の小羊とはとを持って祭司の所へ行くことになっていた。ヨセフとマリアは貧しかったのか、はとだけをささげた。
 マリアはそのきよめのためと、幼な子をささげるためにエルサレムにやってきた。幼な子をささげるというのは、出エジプトの時に、初めての男の子を神のささげたことから始まったとされている。ささげものは本来ならば殺されるはずだが、それに代わって、しるしとしてあがないのはんさいをささげ、幼児はそれによって聖別され神に所属するとされた。そしてその子を再び神から受け取るということだそうだ。

 その時エルサレムにシメオンという老人がいた。シメオンというのは「聞き入れられた」という意味。新約聖書では「シモン」と言われることが多い。このおじいさんは救い主が来ることを待ち望んでいた。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた。信仰があつい人とは神の戒めと定めとを守っていた、ということだろう。
 もちろん当時の人はだれでも律法を守っていただろう。でも律法を守っていても、期待をもって、喜んで守っている人は多くはなかったらしい。当時多くの人が律法に対して、ただ過ちを犯すことを恐れていた。何をするのにもこれをしてもいいか、大丈夫かとびくびくして心配になっていた。でもシメオンは神に従うことを喜び、希望を持って生きていたようだ。
 私たちは喜びがあるのだろうか、希望があるのだろうか、希望を持って教会に来ているのだろうか、喜びと希望を持って礼拝に集っているのだろうか。
 クリスチャンになるとしてはいけないことがいろいろと出てくるようなことを聞くことがある。礼拝を休んではいけないとか、献金をしないといけないとか、酒を飲んではいけないとかたばこを吸ってはいけないとか、そんな戒律を守らないといけない、戒律を守ることがクリスチャンである姿というようなイメージがあるように思う。では本当に日曜日に礼拝に休んではいけないのか、それは悪なのか罪なのか。何が何でも兎に角日曜日に教会の椅子に座っていればそれでいいのか。
 ぼくも礼拝が待ち遠しくて喜んで行ってたことはあったか、と考えるとあまり偉そうなことは言えないけれども。教会は礼拝が中心、とは言うが、礼拝よりもその後の行事の方が楽しくて教会に行ってたことが多かったような気がする。日曜日は礼拝にいかなければならないから行くのと、喜んで行くのとはえらい違いだろう。外見は同じことをしているようだけれども、その中身は全然違うものになる。ただ戒律を守るということだけで礼拝に来るというのはとても勿体ないことだと思う。そこで神と出会い、神の言葉を聞くために集まっているのだと思う。罪の赦しを聞きまた慰めの言葉を聞くところ、そして日常生活へとまた出ていくところ、そこが礼拝だと思う。神の言葉を通して自分の生活を顧みて、これからどう生きるのか、自分がこれから何をしていくのかを聞いていく時間なのだ。だから礼拝は何か特別なすぐれたことをしているわけでもないし、そこで清らかな人間になるわけでも、清い人間だけに許されることでもない。罪にまみれたただの人間である私たちが呼び集められるところが礼拝なのだ。だからこそ礼拝に来ようとするわけで、休むと後ろめたいからとか、誰かに文句を言われないために来る所ではない。だから礼拝を休むことが悪いとか罪だとかいうことでもないし、休む人間を咎める必要もない。

 シメオンの時代の人たちの多くは形だけは一所懸命に律法を守っている人が大勢いたようだ。神はどうあれ、神との関係はどうあれ、律法に書かれている通りにしておけばいいのだ、ということで守っているような人が多かったようだ。そして後々イエスが怒ったのもそんな見ばえだけはいいが中身のない、ただ律法を守るという形だけにこだわって、そのことを威張り、守れないものを疎外し差別していた人たちだった。
 シメオンはまわりにもそんな形だけは熱心な人が多いなかでも、彼は喜んで律法を守っていたようだ。そして神から救い主を見るまでは死なないと約束されていた。そんな神とのつながりを持っていたようだ。
 シメオンは幼な子のイエスが救い主であると示される。そこで神を讃美する。この賛歌はヌンク・ディミティスと言われる。
 この中でイエスのことを「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と告げる。イエスはイスラエル民族だけの救い主だけではなく、全世界の民の救い主であると予言する。31「これは万民のために整えてくださった救い」だと言う。会っただけでそんなことがどうして分かるのかと言う気もするけれど。おもしろいことに30「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言う。

 イエスはまだ赤ん坊でしかない。イエスは何の業もしていない。なのにシメオンは救いを見た、と言う。イエスに会うこと、イエスに接することが救いだ、と言う。救いとはイエスに会うことなのだ。いやそれよりもイエス自身が救いなのだ。誰かが何かをすること、神が私たちを今の状態から全く別の状態へ変えることが救いであると思う。全く違う別の私にしてもらうこと、駄目な私を立派な強い人間に変えてくれることが救いだと思うのではないか。あるいは私のまわりを全く別の世界に変えてもらうこと、苦しい大変な状況をなくしてくれたり、自分を苦しめる人間をいい人間に変えてくれることが救いであると思い、それを願うことが多い。けれども救いとはそんなことではなくて、イエス自身が救いなのだ、そしてそのイエスと出会うことが救いなのだ、とシメオンは言った。

 さらにシメオンは預言する。34「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」。イエスはまず人を倒れさせる。躓かせる。そのあと立ち上がらせる。だれもイエスに躓く。つまずかないではいられない。つまずかないでいられるものは誰もいない。
 イエスの言葉を聖書の言葉を何の抵抗もなくすんなりと聞くことの出来る者はいない。なんなんだ、どういうことだ、そんなばかな、そんなことできないと思う。隣人を愛しなさいと言われているけれど、なんとなく愛している気分にはなっても真剣にそのことを考えることはあまりない。じゃあ隣人とは誰か、と聞き返した人がいたことが聖書には書いてある。その人は結構真剣にイエスの言葉を聞いていたのかもしれないと思う。それに対してイエスはよきサマリア人の話しをした。強盗に襲われた通りすがりの人の世話をした人、その人が隣人になった人だと言い、あなたもそのようにしなさいと言った。そのようにしなさい、と言われたイエスの言葉を私たちはどれほど真剣に聞いているだろうか。すんなりと聞ける言葉ではないだろうと思う。案外、できるとかできないとかの一言で終わってしまっていることが多いのかもしれない。
 できるとかできないとか、分かるとか分からないとかに関わらず、兎に角真剣にイエスの言葉を聞いていく、じっくりと味わっていくということが大事なのだと思う。

 何なんだろうとか、何言ってるんだろう、そんなこととても無理と思うようなこともいっぱいある。でも何なんだろうと思うことはとても大事なことではないか、と思う。何じゃこりゃ、と思うことから、イエスを真剣に見つめる。イエスとの違いを見つめることから自分が分かってくる。イエスは耳障りのいい話しばかりしている訳ではない。
35 「多くの人の心にある思い」とある。人の心の中には罪がある。自分の中に罪があるということを知ることから全ては始まる。35「あなた自身も剣で心を差し貫かれます」。自分が罪人であると認めることは、剣で胸を差し貫かれることでもある。自分が悪いのだと認めることはとても難しいと思う。

 そんなこと言わないでくれと思う。そんな痛いところはさわらないでくれ、と言いたい。そんな痛い思いはしたくない。やめてくれーと思う。
 でも問題にあたらなければ解決しない。罪の問題をそのままにしていては私たちは立ち上がれない。イエスは私たちを立ち上がらせてくれる。どんな罪があっても、イエスはゆるしてくれる。イエスは私たちの罪を全部ひっかぶってくれたから。私たちは罪だらけ。罪にまみれている。でもイエスはそれでもいい、そのままでいい、罪をもったままで私たちについてこい、罰は全部俺が引き受けるから、と言う。だからこれからは罪を赦された者として、私に従って生きなさいと言っている。
 だからこそ私たちは立ち上がることができる。膨大な借金をかかえてどうすることもできず、何もする気力の無いものに向かって、その借金はわたしが返したといわれているようなもの。
 でもやっぱり私たちは罪を持っている。またすぐイエスからはなれてしまう。倒れる、躓く。でも躓くことでまた軌道修正してイエスの方へ向かっていくことができる。七転八倒だ。七転八起かな。でもそのたびにイエスの凄さがわかる。イエスの愛の大きさが分かる。そしてそれを知るために礼拝している。イエスに赦された者としてイエスの弟子となっていく。イエスの声に従って、愛する者となっていく、仕える者となっていく、奉仕する者となっていく、そのためにここに集まって礼拝している。礼拝に集められた者が共に神の声を聞き、愛し合いいたわりあうこと、奉仕する者となっていくこと、それが一番の伝道だと思う。
 イエスとの出会い、イエスの言葉との出会いをまず私たちが大事にしていきたい、と思う。

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