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礼拝メッセージより



「憐れんでください」 2008年11月9日 
聖書:ルカによる福音書 18章9-14節

 今日の聖書のイエスの譬えの中に二人の人が出てきます。
 ファリサイ派の人は神を崇拝し、律法を守り、実践し、神の民を指導していた、少なくとも自分ではそう思っていた人であります。また神殿を自分の家のように身近に感じてもいたでありましょう。今でいうならば牧師とか役員とか、敬虔なクリスチャンと言われるような人のことでしょうか。
 一方、徴税人は、ローマ帝国のために働く裏切り者で、金儲けのことばかり考えている者、金のためにはなんでもする者、自分の利益のためにはどんな事でもする者、神だの信仰だの、そんなものが何になるか、と言ってるような人たちだったのでしょ。そして当時の人達のほとんどが、徴税人に対してそんなイメージを持っていたようでした。要するに罪人の代表のように思っていたわけです。今の教会で言えば、教会とは無縁の人、教会にも来てほしくない人と言っていいかもしれません。

 ファリサイ派の人は自分を罪なきものとして確信をもって喜んで祈ります。彼は自分がこの徴税人の様なものでないことを、神の恵みと思っています。そして、自分がいかに律法を忠実に守っているかということを自信たっぷりに神さまに報告します。週に二回の断食を欠かしたことはないと言います。でも律法にはそこまでは書いていないそうです。週に2回も断食しろなんてことは書いていない。律法に書かれていないようなことまでしているという自慢なんでしょう。続いて全収入の十分の一を捧げなかったことは一度もないと祈ります。彼はこのように誇らしげに祈ります。

 しかし徴税人は自分の罪に打ちのめされて、しばらく声も出なかったのではないでしょうか。目を天に向けようともしなかったと書いてあります。彼は神さまと面と向かい合うことも出来なかったようです。そして胸を打ちながら『神様、罪人の私を憐れんでください』とだけ祈ります。彼にはこの言葉しかなかったのでしょう。どういう状況だったのかは書かれていませんが、生活も乱れてぼろぼろになり、もうどうしようもない、やり直す元気もない、といった状況だったのでしょう。

 しかし、イエス様はこの二人の内、神に義とされたのは徴税人であり、ファリサイ派の人ではないと言います。

 もちろんファリサイ派の人も真剣に律法を守り、真剣に祈ったことと思います。自分は正しいことをしている、こうすることで神に義と認められている、これこそが神に従う道だと信じていたのではないでしょうか。しかしながらいつのまにか彼は神により頼むよりも、自分はこんなにもできた、こんなに完璧に出来る人間だ、といったように、できる自分に頼んでいる、神を信じるんではなくて、何でもできる自分、何でもこなすことができる自分、何でもうまくやってきたという自信、それを頼りとしてしまっているようです。

 徴税人も祈ります。彼はただ神のみを見上げて祈ります。祈りと言えるようなものではなかったかもしれません。恐らくほとんどうめきだったのではないでしょうか。しかし祈りは聞き入れられます。彼には神の助けの他には、何の助けもありません。彼は神に誇るようなものは何もありません。神に頼むしかない、神にすがるしかなかったのでしょう。しかしそのような徴税人を神は高く引き上げてくださいます。自分を低くするものを高く引き上げてくださいます。罪人のわたしを憐れんでください、としか祈れない、そのような者を神は義とされる、ただしいと認めてくれるというのです。


 このファリサイ派の人とは一体誰のことでしょうか。私はこのファリサイ派の人の思いに自分の思いがだぶってきます。自分がこんなに色々な奉仕をしているんだ、しっかりと十分の一を献金しているんだ、毎週礼拝に出席しているんだ。こんなに奉仕しているんだ、あの人よりはよっぽどましだ、これだけやっているんだから、いっぱい恵みを下さい、声には出さないまでもそんな気持ちがあります。

 祈りだけではなく、いつも他の人より上にいるか、それとも下にいるか、そんな自分の相対的な位置をいつも気にしています。いつも周りと自分を比較して、そして自分の方が上だと思うときは、やっぱり俺の方がいい人間だ、なんて安心したり、威張りたくなったりします。そういう時、やはり回りの人たちの中に、色々な罪とか、おかしなところとか、自分の気に入らないところばかりが目についてしまいます。そういう時、この人達はこれでも本当に教会員なのか、そんなことばかり考えてしまいます。自分のことは棚に上げて回りの人の悪いところばかり見てしまいます。教会はこうあるべきだとかかっこいいことを言う時には、俺はこんなにいいことを考えているんだぞ、偉いだろう、お前らとは違うんだぞ、なんてことを思ったりすることがあります。自分がどれほどすぐれているか、そんなことばっかり考えている、イエスさまはまさにこのような状況にあるものを義とはされないと言っているのではないでしょうか。

 逆に自分の間違いを指摘されたり、自分のしたことや言ったことを非難されたりするとすぐ落ち込んでしまい、もう何もする元気もなくなり、ただただうずくまるしかないような思いになってしまいます。そしてどうして自分はこんなに駄目なんだろう、と自分を責めて、自分の無力さを嘆き、自分自身のことを裁いてしまいます。そんなことをしても深みに嵌まるだけなのですが、自分の駄目さ、だらし無さに辟易してしまいます。そうしてただただ疲れてしまいます。
 しかしこの徴税人はまさにそんな思いで神殿にやってきたのだろうと思います。この人は罪人のわたしを憐れんでください、と祈りました。私の罪を、ではなく、罪人のわたしをと言いました。自分にも少し罪があって、その罪を赦して欲しい、というようなことではなく、自分は罪の塊であってもうどうしようもない、こんな罪人である自分を憐れんで欲しいと祈っているわけです。憐れむ、とは同じように痛み苦しむということだそうです。自分の無力さと駄目さに打ちのめされて苦しんでいる、その苦しみを分かってください、こんなに苦しいのを分かってください、とこの人は祈っているということのようです。
 そしてこの人が義とされた、とイエスは言います。その人をただしいとされた、それでいいんだ、あなたは自分で自分のことを駄目だと言っているが、神はそれでいいんだ、あなたは駄目ではないんだと認めている、ということです。

 生きることが虚しくて、希望もなくなり、電車に飛び込んで自殺未遂をした女性がいました。しかし死にきれず、両足と片手を切断して病院のベッドに寝かされて何日も何日も天井ばかり見つめていました。彼女の病室へ聖書を持って現れ、キリストの話をする人もいましたが、彼女は自分の体の事を知り、余計に生きることがいやになり、どうして死ねなかったのか、どうにかして死ぬことは出来ないものかと考えました。彼女は眠れないと言って睡眠薬をもらって、ある程度集まってから一度に飲んで死のうと考えます。そして薬が集まって、それを飲もうと決心したその夜、彼女は何回か聞いた聖書のことを思い出したのです。その夜、彼女は初めて祈るのです。その祈りは「神さま、もし本当にいるのなら救って下さい。」というものでした。いつの間にか彼女は眠ってしまい、気がつくと朝になっていたそうです。久し振りにぐっすり眠ったそうです。そしてその朝から、周りのもの全てが昨日とは違って輝いて見えたそうです。一言「もし神さまが本当にいるのなら救って下さい。」と言う祈りでした。しかしその祈りから彼女は全く変えられていったのです。

 罪人の私をゆるしてください、神さまが本当にいるなら救って下さい、それこそが私たちの本当の祈りなんだろうと思います。そしてそんな祈りこそを神は待っているんのではないでしょうか。

 あるホームページに小羊を抱いたイエスの絵と共にこんな文章が載っています。
 「わたしについて来なさい  無理なら私が ついて行きます」
 この言葉が聖書にあるわけではありません。世の終わりまであなたがたと共にいるとイエスが言われている言葉はありますが、それはこの言葉に通じるものがあります。
 ついてきました、なんて偉そうなことを言えない私達です。でもイエスの方がついてきてくれています。だからこそ祈れるのです。助けて下さい、憐れんで下さい、救って下さい、と。

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