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礼拝メッセージより
「帰れや」 2008年11月2日
聖書:ルカによる福音書 15章11-32節
放蕩
ある人に息子が二人いた、というところからたとえは始まる。ある時、弟は父親に『おやじ、俺はもうこの家を出ていくから、おれの分の財産をくれよ』と言う。そもそも親がまだ生きているのに財産をわけてくれなどというのはとんでもない話だが父親は財産を分けてやる。弟は自分の分け前をもらって家を飛び出してしまう。彼はこうしてドンチャン騒ぎをして遊んだのだろう。
しかしそのうちすっからかんになってしまい、丁度その頃、その地方に大飢饉が起こってしまう。
仕方なく彼はある人を頼っていくが、その人は彼に豚の世話をさせる。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物で、普通ならばなるべく係わりたくない生き物だったようだ。しばらく何も食べるものがなく、豚の食べているいなご豆でもいいから食べたいと思うほどだった。
彼はきっとどうしてこんなことになってしまったのかと考えたことだろう。何でよりによってこんな時に大飢饉になるんだ、とかどうしてまともな仕事がないんだ、とか考えたんではないか。
しかしこのようなことをいくら考えても何の解決にもならないことが分かってきたのだと思う。そして次第に自分自身のことを考えはじめたであろう。自分自身のだらしなさ、金がある時だけは好きな事ができたが、それも結局は自分で稼いだ金でもない、親の遺産をもらっただけだ、そしてそれも食いつぶした、一体自分はなんなのか、何にもないじゃないか、何の取り柄もないじゃないか、何という駄目な人間なんだ、と自己嫌悪に陥ってしまったのではないかと思う。
多分羽振りのいい時には自分のことを真剣に考えなかっただろうと思う。普通の人間はそうだろうが何か大変な事が起きても、あれが悪い、これが悪いと言って、自分以外のものが悪いからこうなってしまった、と考える。でもそんなことにいくら文句を言っていても、何も変わりはしないのが現実だ。この弟も、多分最初は回りの状況にいろいろと文句を付けていたんではないかと思う。でも文句を言ったところで、状況なんてのは簡単には変わってはくれない。
弟はまわりのせいにしても結局はどうにもならず、そうする事にも疲れ、この先生きていく力もなくし、つまり未来を自分で切り開いていく力も何もかもなくして、ただうずくまるしかない、そんな状況だったのではないかと思う。これから何をどうしていいかさっぱりわからない、もうどうしようもない、そんな時に頭に浮かんだのが自分の家のことだったということだろう。もう彼にはそこしか行くところがなかった。恥をしのんで、家に帰るしかなかった。
帰宅
弟はついて家に帰る。父は彼が家に着くずっと手前から彼に気付いている。20節には『まだ遠く離れていたのに・・』と書かれている。父は待ち続けていた。息子が帰ってくるのを今か今かと待ち焦がれていた。毎日毎日外を眺めていた。そしてその息子が帰ってくると誰よりも速く、一番に家を飛び出して走って迎えに行く。
この息子は悲痛な思いで父に詫びる。しかし父は雇い人にしてくれ、と言うはずだった息子の言葉をさえぎって、いい服を着せ、指輪をはめ、履物を足にはかせ、ということは裸足だったのか、肥えた子牛をほふって祝宴を始めてしまう。お前は俺の大事な息子だ、ということを行動でもって表しているようだ。
父は息子がこれまでにしたことを全く責めもせず、自分の息子の帰ってきたことをただただ喜んでいる。彼は最後の力を振り絞って家に帰ってきたのだろう。死んでいたのに生き返った、という言葉そのものだったのかもしれないと思う。
兄
ここに兄が帰ってくる。兄はこの成り行きを聞いて怒って家にも入ろうとしない。兄は今まで父のもとで忠実に働いてきたようだ。弟のように遊ぶこともなく、贅沢もせずに父に仕えてきた。だから兄は弟の罪を情け容赦なく明るみに出して父に詰め寄る。しかも兄は30節で"あなたのあの息子"と言っている。もう自分とは関係のない奴だと言いたかったのかもしれない。
この兄に対して父は死んでいたあなたの弟が生き返ったのだから、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである、と言って説得する。
こうやって聖書の中に書かれてしまうと、この兄の言葉はとても冷たく聞こえる。でも、この兄のように考えるのが普通ではないかと思う。兄にはこのように弟を非難する権利もあるのかもしれない。
しかし、この時の弟の気持ちをなに一つ分かっていない。分かろうともしていない。彼は父のもとでずっとまじめに働いてきた。まわりから見れば従順な親孝行なよい兄だった。しかし、彼の心の中は決して満ち足りてはいなかった。彼の心の中にはやさしさのかけらもなくなっていたのかもしれない。
社会一般の常識から言うとこの兄の言葉の方が当たり前のようにも思える。こんな父親がいたら、その父親に向かってなんて言うだろうか。あんたは甘いよ、そんなことしてたら、あの弟はまた堕落してしまう、しっかり働かせろ、何年か真面目に働いたなら、息子として扱えばいい、それまでは雇い人として扱った方がいい、そんなことを言いたくなりそうだ。
兄の気持ちは多分そんなものだったのだろう。しかし父にもこの兄が言ったように弟の行動を非難することは出来たはずだ。普通は父の方こそ、非難すべき立場にあった。しかしこの父はそうしなかった。きっと父にはこの弟の苦しみが良く分かっていたのだろう。或いは、父も同じ様な苦しい経験があったのかもしれない。
受け止める
人間は人の間違いを見つけては、それを変えてやろう、変えてあげよう、正してあげよう、とすることが多いようだ。駄目なところを、或いは駄目な人間を変えてやらねば、と思うことが多いのではないか。人の間違いや人のだらしないところを見つけると、途端に自分はすばらしい人間になったかのように高い所からその人を見てしまうようなところがある。
「若い父親のための10章」というのがある。若い父親のために書かれた本で、こんなときはこうしよう、これはこうしよう、ととても参考になることが書いてある小さな薄い本だが、その中のある章に『家族のために祈ることを止める』とかいうところがある。こういうと、「祈るのを止めるとは何事ですか、いつも祈らねばなりません」なんていう声が聞こえてきそうだ。だがその人が言うには、「ある時まで私はいつも、妻のあの悪いところが良くなりますように、あの子どもの悪いところがよくなりますように、家族のあそこを変えてください、ここを変えてください」という祈りばかりをしていた、と言う。でもある時それは間違っていると気付いてそれからはそんな祈りは止めた。そしてそれからは、妻のために私に何ができるか、子どものために私に何ができるか、と祈るようになった。それまでは家族の悪いところばかりが目について腹を立ててばかりいたけれども、それからは、家族に対する見方が変わってきた、ということだった。
私たちはすぐに人を変えてやろう、変えてやろうとする。ぐたっとして、くたびれている疲れている挫けている人を見ると、立ち直られせてやらねば、なんて思う。何がどうなる事が立ち直る事なのかも分かりもしないのに、そんな風に思う。そしてだいたい自分の気に入るような人間になることが立ち直ったことのように思うことが多いが、立派に立ち直れば認めてやろうというように、その人が立ち直るかどうか、それが問題になってしまってたりする。
でも、この聖書の父親は弟を力ずくで何がなんでも立ち直らせよう、鍛えなおそうとはしていない。この父親はとことん子どもを受け入れている。自分に逆らい悪に染まり、打ちのめされて倒れてしまっている、なんともだらしない、そんな子どもの駄目さも何もかも全部ひっくるめて受け入れている。傷ついていようが、倒れていようが、そのままの子どもを受け入れている。また兄に対しても、咎めたり、責めたりしていない。とにかく俺の言う通りにしろ、と力ずくで従わせようとしたり、俺に逆らう奴はとっとと出て行け、なんて言うことも何も言っていない。
神
今日の聖書の中に出てくる父、神はまさにそのような方なのだ、とイエスは言っているようだ。神はあなたを、また私を愛してくれている。それは丁度、この父親が、二人の息子を愛することと同じであるということだろう。この父親は息子がどれほど悪に染まったとしても愛する。それと同じ様に神も徹底的に私たちを愛してくれている。間違いを責めることも問いつめることもしない。まるで何もなかったかのように大事に大事に受け止めている。それは全くダメ親父の姿のようだ。親父ならもっと毅然とした態度で接しないといけない、と世間からは言われる、そんな徹底的に甘やかしたような対応だ。
しかし神はそんな風に私たちを、罪人を待っているということなのだろう。とにかく抱きしめたくて待ち続けている、そんな思いで私たちを見つめているということなのだろう。
いろんなことに打ちのめされてぼろぼろになっている私たちを、思いもよらないような辛い出来事に疲れ果て落ち込んでいる私たちを、神様はそのまま包み込んでくれるのだ。世間的にはどんなにだらし無くても、どんなに悪い人間でも、そしてまた自分から見ても、駄目で愚図でどうしようもない人間で、生きている価値もない、と思っていたとしても、神さまはそのまま抱きしめてくれる、抱きしめてくれているのだろう。
神が私たちを愛している、とはきっとそういうことなのだ。そしてそれがイエスが私たちに伝えてくれた神の姿なのだ。そうやって愛されることで、全てを受け止めてもらうことで人は変わっていくことが出来るのだろう。神は、命令したりこらしめたり脅かしたりして外側から力で人を動かすのではなく、しっかりと抱きしめて、安心させるようなそんな心の中から人を動かそうとしているようだ。
誰かが、それはまるで母親のような姿だと言っていた。何があっても受け止め抱きしめる母親のような神、ダメ親父の神、それが私たちの神の姿である。
徹底的に私たちを認めてくれる、私たちの全てを受け止めてくれる方がいる、ということは心の底からじわっと喜びがにじみ出てくるような気がする。きっとそこから生きていく力が生まれてくるんだろうと思う。そして教会はきっと疲れ果ててぼろぼろになって帰ってきた者の集まりなのだ。ぼろぼろだけど神に抱きしめられている者の集まりなのだ。
帰ってこい、いつでも帰ってこい、ずっと待っている、神は私たちにもそう言われているのだろう。