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礼拝メッセージより
「ひとりぼっちじゃない」 2008年11月16日
聖書:ルカによる福音書 19章1-10節
のけ者
今日はザアカイという人が登場するところです。ザアカイは徴税人のかしらで金持ちであったと書かれています。聖書の中に徴税人は何回も出てきますが、当時、このイスラエルの地方はローマ帝国の支配下に在り、ローマに税金を払っていました。そして税金を集める方法が今とは少し変わっていて、その地域のみんなの税金をある人が先ず全部払って、その後で個人個人からその人の分の税金を集めるという方法だったそうです。その最初にまとめて全部払って、あとでみんなから集める人が、すなわち徴税人という訳です。そうやって税金を払っていたのですが、みんなの分をまとめて払うなんてことが出来るのは当然金持ちしかいないわけです。
そしてこの徴税人が、個人的に税金を集めるときに、適当に理由を付けて本来の税金よりも多く集めれば、その分は徴税人本人のふところに入るという仕組みになっていたようです。徴税人の多くがそうやって誤魔化して税金を集めていたらしくて、一般の貧しい人達にとって、ローマの手先としてローマの為に働いているだけでも憎らしいのに、その上税金を誤魔化して儲けている徴税人は悪の象徴のようなもので、遊女と並んで罪人の代表のように思っていたようでした。
そんな徴税人のひとりであるザアカイも当然のようにみんなからは嫌われていました。
ザアカイは自分が住んでいたエリコにイエスさまが来るという噂を聞きつけて通りにやってきてその噂の主を見てみようとします。しかし、そこにはもう人垣ができていたのでしょう。ザアカイは背が低かったために見えませんでした。人垣の前に出ようとしてもはじき出されてしまったのではないでしょうか。「おまえなんかの来るところじゃない。」と言われている光景が目に浮かぶようです。仕方無く彼は前の方へ走っていって、登りやすそうな木を見つけて、その木の上からイエスさまを見ようと待ち構えます。エリコには今でも幹の直径が1m、高さが30m位のいちじく桑の木があるそうです。そんな木に登ってイエスさまを待ったのでしょう。きっと決して若くないいい大人だったと思いますが、そんなおじさんが木に登ったわけです。
突然
ザアカイも他の人達と同じように、イエスさまがそれまでにどんな事をしてきたか、どんな話をしてきたかをいう噂を聞いていたんだろうと思います。それで多分少しは気になる奴だとは思っていたのでしょう。顔くらいは見ておこうと思ったのかもしれません。でも多分その時彼は、それ以上の関わりを持つつもりもなくて、持ちたいとも思ってなかったのではないか、ただどんな姿なのかを見たかっただけだったのだろうと思います。
ところがこともあろうに、そのイエスという男が木の下に来たときに、思いもよらなかったことが起こります。なんと彼は「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」なんてことを言い出します。
ザアカイはイエスさまが声を掛けてくれるなんてことは予想もしていなかったと思います。ましてや、自分の家に泊まるなどということは夢にも思っていなかったでしょう。だから、いきなり「お前の家に泊まる」と言われた時にザアカイは多分「えっ、今なんて言ったんですか?私の家に泊まるんですか、散らかってますよ」と言ったかどうか分かりませんが、とにかくびっくりしてしまったに違いありません。もちろん詳しいことまでは分からないんですが、きっとまわりの人達も同じように自分の耳を疑ったんじゃないかと思うんです。そしてきっとみんな茫然として、回りの人達と顔を見合わせたんじゃないでしょうか。この成り行きを見て一番びっくりしたのはこの回りを取り囲んだ人達だったのかもしれません。「あんな奴の家に泊まるんだってよ。あんな奴の友達だったのか」とか何とか言ってあきれて帰ってしまう人もいたかもしれません。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言った人がいたことが聖書に書かれています。
しかしそんなまわりのことなどおかまいなしに、ザアカイは急いで木から降りてきてイエスさまを自分の家に迎え入れます。突然の出来事でしたが、ザアカイは殊の外喜んでいるようです。お客様が来る、なんていうときには、どう接待しないといけないか、お茶はあったか、食事は布団は、なんて逆にいろいろんなことが心配になってしまうなんてことがよくあります。けれどもザアカイはそんなことはまるでどうでもいいかのようです。子どもが仲の良い友だちを家に連れてくるように、ただただイエスさまが自分の家に来てくれる、そのことが嬉しくて嬉しくて仕方ないかのようです。
お金
そして、このイエスさまとの出会いが彼の生き方をも変えてしまいました。それまではどうすれば金を貯められるか、どうすればうまく税金をいっぱいごまかすことができるか、そんなことばかり考えていたのでしょう。そのためにまわりの人からどんな風に言われようと構わない、結局頼りになるのはお金なんだと思っていたのでしょう。ところが、こんなお金のためだけに生きてきたような人間であったザアカイが、財産の半分を貧しい人に施し、不正をしていたら4倍にして返す人間にと変わってしまったのです。それもたった一日のうちに変わってしまったのです。ザアカイはイエスさまと会い、イエスさまが家にやってきて泊まってくれるということによって、それまでとは全く違った生き方を始めます。それまでお金が世の中で一番大事な物であった。そんな考えは、イエスさまを迎え入れた喜びで吹き飛んでしまったのです。それまでお金さえあればと思いながら必死にお金を稼ぐことを考えていたのでしょう。けれどもそのために友達もいない、自分の所にやってくる人も泊まってくれる人もいない、そんなことが淋しくて淋しくて仕方なかったのかもしれません。
救い
イエスさまはザアカイにこう言います。「今日、救いがこの家を訪れた」。今日が救いの日なのだとイエスさまは言っています。しかしこの日ザアカイがしたことは、ただイエスさまを迎え入れただけなのです。ザアカイはまだ財産を貧民に施してもいないし、不正を返してもいないのです。まだ何もしていないのです。でも今日が救いの日だ、とイエスさまは言うのです。イエスさまは不正を全て返した日が救いの日だとは言ってはいません。今日が救いの日なのだとイエスさまは言うのです。ただイエスさまを迎えることが救いなのだと言うのです。友達がいなかったザアカイにイエスさまという友達が出来た、そしてそれまでの淋しさから解放されたのでしょう。そして同時にお金に縛られていたようなザアカイはそこからも解放されたのだと思います。
自分はひとりぼっちなんだとずっと思ってきていたのでしょう。でもそじゃなかった、自分のところへ泊まりに来てくれる人がいた、自分のことを分かってくれる人がいた、そのことが嬉しくて嬉しくて仕方なかったのでしょう。
お金
しかしお金から解放されるということも決して容易なことではないでしょう。ルカによる福音書の18章のところに金持ちの役人がイエスさまのところにやって来て永遠のいのちを得るためには何をしたらよいかと尋ねるところがあります。どんなよいことをすれば永遠の命を手に入れることができるのかと、この役人は尋ねています。この役人は、律法もきちんと守っている、これ以上なにかすることがもしあるなら言ってみてください、と自信をもってイエスさまに尋ねたのではないでしょうか。これに対して、イエスさまはあなたの持ち物を全部売り払って貧しい人に施し、そして私に従って来なさい、と言ったと書かれています。しかしこの金持ちの役人は非常に悲しんで帰ってしまいました。なんでも完璧に出来ると思ってるなら、やれるものならやってみろ、律法を守っているからと言って威張るんじゃないよ。財産を全部売ることはできないじゃないか。そうやってよい行いによって救われようとしてもだめなんだ。救いなんてのは、永遠の命なんてのは、よい行いの報酬として与えられる物ではないんだ、といいたかったのかもしれません。
ザアカイがイエスさまを迎え入れてよろこんで自分の財産の半分を貧しい人に施すと約束したことと対照的です。役人はなにかよいことをして神の国を手にいれようとして失敗しましたが、しかしザアカイはただイエスさまを迎え入れることで、もっと言えばイエスさまに押しかけて来られることで救われているのです。
ヨハネによる福音書3章16、17節「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とあります。神がイエスさまをつかわしたのは、信じる者が救われて、永遠のいのちを持つためであるということです。
救いとは天国行きの切符を手に入れることということができるかもしれません。では救われるためにはどうすればいいのでしょうか。ローマの信徒への手紙10章9、10節に「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心に信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」とあります。ここには何かよいことをしたら救われるということは全く書かれていません。行いによって救われるのではなく、悔い改めと信仰によって救われるのです。
また救いとは永遠のいのちを得ることです。永遠の命なんて聞くと何だか死んだ後に極楽に行くみたいなことのような気がします。だから今は苦しいけれどもいつかはいいところにいける、そんな約束をしてもらうことのような気がします。けれどもイエスさまはザアカイに対して、今日救いが来た、と言いました。救いは遠い未来の出来事ではなく、今日おきていることなのだと言うのです。ということは永遠のいのちというのも、死んだ後に始まるいのちではなく、永遠のいのちはもうここから始まっているということでしょう。ザアカイがイエスさまに来てもらって喜んだ、それはもう永遠の命の始まりなのだということです。
ザアカイを束縛から解放した力が、今まさに私たちを支えてくれているのです。それだから私たちがどんなに行き詰まっても自分でどうしようもなくなってもあきらめる必要はないのです。希望など全くないように思われる時でもあきらめる必要はないのです。ひとりだけで悩む必要もないのです。自分ではできなくても、神がそこにいて助けて下さる、救って下さるのです。自分の力ではどうにもならないときでも、イエスさまを死人の中から復活させた、その力で、神は私たちを守ってくださるのです。
イザヤ書7章14節にインマヌエルと言う言葉があります。イエスさまの誕生の預言として、マタイによる福音書の1章にもあります。インマヌというのは私たちとともにと言う意味です。そしてエルは神の意味です。つまりマタイに書いてあるようにインマヌエルで「神われらとともにいます」と言う意味になります。この言葉が示すように、神は私たちをいつも共にいて下さり、私たちをやみの中に放っておくことはないのです。そして今日も今も共にいて下さるのです。
たとえ誰からも見捨てられて、こいつはもうだめだ、手の施しようがないと言われ、ひとりぼっちになったとしても、神さまはそんな私たちをわざわざ見つけだしてくれるのです。「人の子は、失われたものを捜し出して救うために来た」からです。
不安
ところでザアカイはどうして金儲けのことばかり考えるようになったのでしょうか。それはいつもザアカイの心の中に不安があったからではないでしょうか。何とも言えない不安感にいつも襲われていたために、それを何とかして吹き払おうとして、金儲けに熱中したのではないでしょうか。頼るべきものを持たない不安感、自分がひとりぼっちであるという不安感、自分はこれでいいんだろうかという不安感。ザアカイの心の中は不安感で一杯だったのではないかと思います。
イエスさまはそのザアカイのところに来られました。この聖書では「ぜひあなたの家に泊まりたい」と訳していますが、原文では「私は泊まらねばならない」という言い方になっているそうです。イエスさまが泊まりたいと言って、それをザアカイが泊めてあげたからザアカイが救われた、というのではなく、イエスさまは最初からザアカイのところに泊まりにきた、たとえザアカイが何と言おうと泊まらねばならない、イエスさまにはそんな気持ちがあったようです。何が何でも泊まる。私はそのために来た、イエスさまはそういっている。
イエスさまは私たちに対しても、私は泊まらねばならない、私はそのために来たのだ、お前のところにやって来た、お前を捜してやってきた、そう言っているのではないでしょうか。
私たちは、ザアカイのようにみんなからのけ者にされて木の上にいるのかもしれません。自分のことを分かってくれる人がいなくて、一人でうずくまっているのかもしれません。生きる希望もなくて死ぬことばかり考えているのかもしれません。しかしイエスさまはそんな私たちに、あなたに会うために来たのだ、あなたを探して来たのだ、あなたの心の中に入るために来たのだ、さあ扉を開けて私を中に入れてくれ、そう言っているのではないでしょうか。
あなたはひとりぼっちじゃない、私はあなたを決してひとりぼっちにはしない、イエスはきっとそう言われています。