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礼拝メッセージより
「神の召し」 2008年10月5日
聖書:ルカによる福音書 6章12-16節
12人の選び
イエスは12人を選んだ。弟子として、使徒として選んだ。他の福音書では「これと思う人々」を選んだと書かれている。そしてこのルカによる福音書のではイエスはその前に夜が明けるまで祈ったと書かれている。
人間が選ぶような、誰もが納得するような客観的な基準で、テストをして選んだのではない。一般の常識で選んだのではない。祈って、御心に沿って選んだということだろう。
では、何のために選んだのか。それはイエスに殺到する群衆の世話のためではなく、群集に教えるためにイエスのことをよく理解した者を選んだのでもなく、また群衆をまとまった組織としてまとめるためにリーダーシップを持ったものを選んだのでもなかった。
彼らは有能だから選ばれたのではなかった。事実それほど有能でもなかったようだ。信仰深かったから選んだのでもなかった。彼らはイエスのことをほとんど理解していない。この時点では12人には信仰など全くない、と言ってもいいほどだ。
彼らは伝道、教え、いやしの第一人者となっていったのでもなかった。12人よりも知識も豊富で、雄弁な者も、指導力のあるものも大勢いただろう。しかし12人をイエスは選んだ。
12人は猛然と立派な強い人間となり、困難にも敢然と立ち向かい、猛烈な勢いで伝道していったわけではなかったようだ。彼らはイエスと共に生き、自分たちが見たこと聞いたことを伝えていった。彼らは普通の人たちだった。普通の人たちがただ普通にイエスを伝えていったのではないか。そしてイエスもそのために12人を選んだのではないか。特別な能力や才能などないものを選んだのかもしれない。それでいいというか、それこそが大事と考えていたのではないか。
教会の中心
目立つ活動をした者や、成果の上がった活動をした者が中心になったり、知識が多かったり、分別をわきまえている者が支配する集団はこの世のもの。
イエスによって立てられている国はこの世のものではない。イエスの流された血によって立てられる神の国では、イエスとの交わりの中に生きている者こそが中心にいる。教会では、そういう人が中心にいる。教会の中心は社会的に名声を得ている人ではなく、地位の高い人でもなく、難しいことばかり喋っている者ではなく、イエスとの交わりに生きている者なんだ。イエスのそばにいる人なんだ。そしてイエスと同じように人に仕えている者こそ教会の中心だ。そのことに気づいていてもいなくても、きっとそうだ。私なんか何も出来ず教会のためになんの役にも立っていないと思っている人こそ、教会の真ん中に立たされているのかもしれない。
イエスはとても社会の真ん中には立てないような12人を宣教につかわす。他の福音書では悪霊を追い出す権能を持たせている。12人の弟子たちはこんな権能とはまるで無縁な人間。却って悪霊に翻弄されるただのこの世の人にすぎない。悪霊に立ち向かう力も知恵もまるでない者たちだ。しかしそんな弟子たちにイエスは悪霊を追い出す権能を持たせる。
12人の中には、漁師、徴税人、熱心党これは革命家、今で言うテロリストがいた。そして裏切り者も。このリストにはどんな人物であったか、どんな能力を持っていたか、そんなことには何も触れていない。ほとんどが名前だけ。12人を立てたという事実にのみ関心があるみたい。
12人は考えや立場が一致した集団でもなかった。片やローマの側についている徴税人がいるかと思えば、ローマからイスラエルを独立させようとする革命家がいた。雑然としたまとまりのない集団。共通点は、ただイエスによって選ばれたということだけのようだ。
神に選ばれた集団
今の教会もこの12人と同じような集団。教会にもいろんな立場の違い、考え方の違い、才能や賜物の違い、そして信仰だってまるで同じではないだろう。教会も何か同じ志を持って集まってきた集団ではなく、ただイエスによって選ばれ集められた集団である。
私たちもイエスにふさわしいから、神の国にふさわしいから選ばれたのではなく、試験にパスしたから、条件にあったから選ばれ招かれたのではない。私なんかがどうして、と考えても答えは出てこない。合理的な答えは多分なんにもないだろう。あれもできない、これもできない、とかなんとか考えてると、教会に来ていること自体間違ったことと思うかもしれない。そういう風に考えても辻褄は会わないだろう。
ならばどうしてここにいるのか。答えはただ一つ、ただイエスが、神が招いたから。自分の何がいいとか悪いとかいうこととは一切関係なく、ただイエスが神が招いたから、だからここにいる。それ以外の理由はない。ただ神がそうしたから。理由を自分の中に探してもない。理由は神の側にあるんだから。