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礼拝メッセージより
「神の計画とゆるし」 2008年9月28日
聖書:創世記 45章1-15節
豊作と飢饉
ヨセフはエジプトの国を治める者となった。そしてヨセフが解き明かしたとおりに、その後エジプトと周辺の国々には7年間の豊作があり、その後に7年間の飢饉があった。ヨセフは豊作の時に穀物を倉に蓄え、飢饉になると倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、周辺の各地からもエジプトへ穀物を買いに来るようになった。
兄たち
ヨセフの父や兄のいるカナンでも飢饉があり、彼らの食料もなくなってきた。そこで、父のヤコブは子ども達にエジプトで穀物を買ってくるようにと言った。しかし末息子のベニヤミンだけは自分の元に残しておいた。自分の愛したラケルの生んだ二人の息子のうち、ヨセフは獣に殺されたと思っているヤコブは、残るベニヤミンに危険なことがあってはならないと心配している。ヨセフを溺愛していたヤコブは、今後はベニヤミンを溺愛しているようだ。自分がヨセフばかりを可愛がることで兄弟の仲が悪くなり、そのためにエジプトへ売られてしまったということをヤコブは知らないのだ。
10人の兄たちは多くの人たちに混じってエジプトへ穀物を買いに行き、エジプトを治めているヨセフの前にひれ伏した。ヨセフは一目で兄だと気付くが、兄たちは全く気付かない。ヨセフはかつて兄たちが自分の前にひれ伏すという夢を見たこと、そしてその後の仕打ちも思い出したことだろう。彼は兄たちに言いがかりをつける。「お前達は回し者だ。この国を探りにきたんだろう。」と言う。兄たちは自分達の潔白を証明するために、ただ穀物を買いに来ただけであって、父ともう一人の弟がカナンにいることを話す。するとヨセフは、尾末の弟を連れてこないとお前達を返さない、誰か一人が連れてこいなんてことを言って、彼らを三日間牢獄に監禁する。その後、今度は、一人だけ残して後の者は穀物を持って帰り、次には弟を連れて来い、なんてことを言う。
結局シメオン一人を残しておくことになるが、ヨセフは穀物の代金として支払った銀を、穀物を入れた袋に入れておくように命令する。
結局ただで穀物をもらってきたようなかたちになった兄たちは震えてしまったという。彼らは何が起こっているのか分からない。ただ食料を買いに行っただけなのにスパイだと疑われて人質を取られ、今度は一番下の弟を連れて来いと言われる。しかも代金として支払ったはずの銀もいつの間にか返されていたわけだ。ヤコブの元へ帰った兄たちはエジプトであったことをヤコブに語り、ベニヤミンを連れて行けばシメオンも解放されるということを説明する。
しかしヤコブにとってベニヤミンはヨセフがいなくなってからの最大の生きがいだったのだろう。どうやらすぐにシメオンを助けに行くようにということはなかったようだ。再び食料が底をつきそうになって、兄たちが食料を買いに行くからベニヤミンを一緒に連れて行かねばならない、そうでないと売ってくれないと言っても、ベニヤミンだけは離さないと主張する。しかも、どうして弟がいるなんてことを喋ったのかと言う。
兄たちにとってはこの期に及んで何を言うか、という気持ちだったのではないかと思う。食料がなかったら一族もろとも飢え死にしてしまう。兄の一人ユダは、ベニヤミンのことは私が保障するから、責任は自分が取るから行かせてくれと頼む。
ヤコブはそこでやっとベニヤミンを連れて行くことに合意する。食料が枯渇しようかというこんな状況でも、相変わらず自分の愛したラケルの生んだ子どもを特別に可愛がるという、とんでもない親父だという気がする。
しかし余程食べ物がなくて困ってしまったのだろうか、ヤコブもしぶしぶベニヤミンを連れて行くことに同意する。しかしベニヤミンのために司政官へのおみやげとして土地の名産品と、代金の銀を二倍持って行くように、つまり返された銀をもう一度支払うようにという。おかしいのは、ヤコブは、そうと決まれば速く行って来い、なんて言うのだ。さんざんごねて行かせなかったくせに、今度は速く行けなんて言う。どうしたものかこの頑固親父。
エジプトで
ヨセフは今度はベニヤミンが一緒だったので自分の家で一緒に食事をしようとする。兄たちは前回のことがあり、ヨセフの家に連れてこられたので畏れてしまう。今度は全員捕まってしまうのかと畏れた。
兄弟たちと面会したヨセフは父の安否を尋ね、弟のベニヤミンをじっと見つめる内に、胸にこみ上げてくるものがあったのだろう、席を外して奥の部屋で泣いた。そして顔を洗ってから兄弟たちと一緒に食事をした。ベニヤミンの料理は他の兄弟より五倍も多かったそうだ。
ヨセフは、兄弟たちの袋に食料をいっぱい入れ、銀も入れておくように、そして自分の銀の杯をベニヤミンの袋に入れておくように、と執事に命じる。そしておいて兄弟たちを返したすぐ後執事に、追いかけていって、どうしてこんな悪いことをするのか、大事な銀の杯まで盗むとは何事か、と問いつめるようにと命じた。兄弟たちは、前の銀も返したではないか、そんな悪いことをするわけがない、銀の杯が出てくるようならその者は死罪に、他の者はみんな奴隷になりますと答える。執事は、杯を取った者だけが奴隷にならねばならない、他の者は無罪だ、と言いつつ兄の方から順番に袋をしらべていく。ベニヤミンの袋に銀の杯があるのを知った兄たちはヨセフのもとへ引き返す。
ヨセフは、この仕業は何事かなんて問いつめる。兄のひとりユダは、罪が見つかったのであるから兄弟みんなが奴隷になるという。ヨセフは盗んだ本人だけが奴隷になればいいと答えるが、ユダはベニヤミンは父が大事にしていた二人の息子の一人で、上の方の息子はいなくなっており、この子も失うと父は生きてはいけないだろう、この子を残して父の元へ帰ることなどできない、自分が代わりになるからこの子は他の兄弟たちと返して欲しいと願う。
正体
そこでヨセフはついに自分の正体を明かす。それが今日の45章。まるで兄たちへの仕返しをするかのように無理難題を兄たちにぶつけてきたヨセフだった。復讐してやるという気持ちも多少なりともあったのではないかと思う。兄たちの今の気持ちも確かめたいという気持ちもあったのだろう。父親に対して、弟のベニヤミンに対して、そして自分を穴に落としたことに対して兄たちがどんな思いでいるのかを知りたかったのようだ。そして何度か兄たちと会ううちにヨセフは基本的には兄たちのことを赦すという気持ちを持つようになっていたのだと思う。
穴に落とされ見知らぬ者に拾われ、エジプトへ売られてきた。そのことはヨセフにとってはきっと寂しく辛い経験だったのだろう。主人の妻から誘惑されることから監獄に入れられてしまったこともあった。穴に落としたりしなければという兄たちを憎む気持ちも当然あっただろうと思う。
でもそのことからやがてエジプトの高官になり、飢饉の時にエジプトだけではなくそのまわりの民を、そして自分の父や兄や弟を助けることになった。
そんな中にあって神の導きを見つめる目をヨセフは持っていたということのようだ。苦しい境遇の中にあっても、そこにある神の導きを見つめる目を持っている。そこで彼は兄弟と和解する力を得ている。神がそこに働いている、実は苦しいことを通して神が導いてくれていることを知る。そこで彼は兄弟を赦す事ができたのではないかと思う。
赦し
兄たちはヨセフと和解し、ヤコブをエジプトへ連れてくる。そしてゴシェンという所に住むようになった。ヨセフは兄たちを赦しているようだが、兄たちは必ずしも赦されているとは思っていないようだ。弟が力を持っているからということもあるのだろうが、これは神の計画で神が私を先にエジプトへ遣わしたのだとヨセフが言っても、ただそれを単純に信じることはできなかったらしい。
兄たちはヨセフがいつ昔のことを蒸し返して仕返しするかもしれないという不安を持っていたようだ。
兄たちはヤコブの死後不安になる。ヨセフはヤコブが生きている間は自分たちを赦したような事を言っていたが、ヤコブが死んだからには、今度こそ本当の仕返しをするのではないか、と思うようになる。兄たちが不安になるのも無理ないという気もする。そしてもう一度ヨセフにかつての咎を赦してほしいと願う。その辺りのことが50章に書かれている。兄をだましたヤコブも、兄のエサウから赦されないのではないかという思いをずっと持ち続けてずっと苦しい思いをしていた。ここでもヨセフよりも兄たちの方が赦されないのではないかという不安をずっと持ち続けている。
これを聞いたヨセフは涙を流したそうだ。一体これはどんな涙だったのだろう。ヨセフは、わたしが神に代わることができましょうか、あながたがはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの命を救うために、今日のようにしてくださったのです、と言った。神がかつての悪を善に変えた、なのに自分がその善をまた悪に変えることなでするはずがないでしょう、ということのようだ。いろんなことがあったけれども、苦しいこともいろいろあったけれども、神がそのいろんなことを善に変えてくれた、苦しいことからも神は善へと導いてくれる、というわけだ。
ヨセフは神の導きを見いだし、かつての憎しみから解放されているようだ。最初は招待を隠して兄たちを困らせるというような悪戯みたいなことをしたことで気分が晴れていたのかもしれない。だからこれは全部神の計画だったのだという気持ちになれているのだろう。しかし兄たちは、ヨセフほどには単純にはいかない。きっと神の計画なのだろうけれども、だからと言ってそう単純に良かった良かったとは言えない。自分たちがしてしまったことの負い目を彼らはずっと持ち続けるしかなかった。彼らは不安な気持ちを持ったままでいる。和解したはずなのに、兄たちには不安が残ったままだったようだ。赦していると言われているのに、そのことをそのまま受け止めることができないでいた、だからずっと不安を抱えたままだったのだろう。結局は傷つけられた方よりも、傷つけた方がずっと苦しむようだ。
ゆるし
過去の過ちや罪に私たちも縛られている。あの時あんなことをしてしまったから、あそこで何もできなかったから、そんな思いが私たちを苦しめる。自分はなんでこんなに駄目なんだろう、なんでこんなにだらしないんだろうと思う。
でもイエス・キリストは言う、あなたが大事だ、今のあなたを愛している、あなたの罪は赦されている、と。信じがたい言葉だ。単純に信じていいのかと疑ってしまうような言葉だ。こんな自分のことを愛しているなんて、こんな自分のことが大切だなんて。なかなか信じられない私たちに対して、イエス・キリストはきっと言いつづけてくれている、お前が大事だ、お前が大切だと。
赦され、自分を認められ、肯定してもらうことで私たちは生きていける。そうすることで生きる元気も出てくる。
ヨセフの兄たちのようにやっぱり不安になることもある。信じられない時もある。こんな自分なのにという思いはぬぐいきれないものがある。でもそんな時にもイエス・キリストは私たちに言うのだ。お前を愛している、お前が大切だ、と。そんなイエス・キリストのことばもしっかり聞いていきたいと思う。