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礼拝メッセージより
「祈ること、愛すること」 2008年10月12日
聖書:ルカによる福音書 6章27-36節
目には目を
『目には目を、歯には歯を』という言葉がある。
出エジプト記「21:23 もし、その他の損傷があるならば、命には命、21:24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、21:25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」とあるように、損害を与えたものは同じもので償わないといけないという風に書かれている。聖書では害を与えた側、加害者側に対する言葉として書かれている。
しかし一般的にはこの「目には目、歯には歯を」という言葉は、被害者側の言葉として理解されていることが多い。やられたら同じようにやり返せ、というような意味に使われていることが多い。
そのように、やられたらやり返す、しかも何倍にもしてやり返すというのが世の常だ。やられたらまたやり返す、そうしたらまたやられたからやり返すという風に、この繰り返しは尽きることがない。いつまでも終わらない。
昔新聞に、戦争がなくらならない理由は、自分たちがどんなにひどいことをしたかということは伝えないけれども、自分たちがどれほどやられたか、どんなひどい目にあったかということは声を大にて伝えていくためだ、と書いてあった。こんなにやられたという憎しみばかりを子どもや孫に伝えていく、そのためにこの世は争いがなくならない、ということだった。まさにその通りだろうと思う。
そして実際この世は、ひどいことをやられたら当然やり返す、やられたんだからやり返す権利があると考えるのが一般的だろうと思う。
しかし
イエスはやり返すなと言う。それだけではなく、敵を愛し、憎む者に親切にしなさい、悪口を言う者のに祝福を祈り、具辱する者のために祈りなさい、なんていう。悪いことをする者に復讐しない、というだけではなく、そいつに良いものを返しなさい、と言うのだ。
具体的なことも言われている。頬を打つものにはもう一方も向けなさい、上着を取る者には下着もとらせなさい、持ち物を取っていかれたら取り返すな、なんてことを言う。
いくら何でもそこまではできないだろう、と思う。そんなことできるわけがないだろうと思ってしまう。
敵を愛す
敵を愛せなんて言われるけれども、敵は憎むものだ。憎むからこそ敵、という気もする。敵とはだれのことなのか。敵の国、同じ国の中にも、同じ国民の中にも、同じ学校、会社の中にも、同じ教会の中にも、同じ家族の中にも敵となる者がいるのか。あるいはだれでも敵となる可能性があるのかもしれない。
ここで愛するとはただ好きになるということではない。ここではアガペーと言われる言葉が使われている。神の愛の時に使う言葉。たとえ自分がどんなことをされてもその人にとって一番いいことをしようとすることである。
肉親を愛するという愛とは違う愛である。肉親を愛する思いは自然に生まれる。愛さないではいられない。しかし敵を愛する愛は自然に心に芽生えては来ない。この愛は好きになると言う感情ではない。それは愛する気持ちになるというよりも愛そうとする意志である。憎らしいけれども愛そうとする決意すること、アガペーの愛とはそういう愛である。
しかしそんなことできるのだろうか。これは単なる理想論か。こんなことできない、という一言で片付けてしまいそうである。いくらイエスの言葉だからと言ってもこれはできない注文だ、と思いたくなる。できない私はだめなのよ、と言って自分を責めるか、出来る訳ないと開き直るかしかないのか。
父のように
36節には「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とある。
天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くなりなさいというのだ。あなたがたは憐れみ深い神の子とされているのだから、当然憐れみ深い者となるはずだ、ということのようだ。
父なる神は悪人も善人にも同じように太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも同じように雨を降らせてくださる、と聞くときどう思うだろうか。
どうして悪人にも私と同じにするのか、あんな奴らには悪いものを与えればいいのにおかしいじゃないかと思うか。それとも、こんな悪い自分にも善人といいものを与えてくれてありがたいと思うのか。
なぜそんなことをするのかと思うとき、自分は善人であると勝手に思い込んでいる。本当は自分が善人かどうかわからないのに。本当は悪人の側にいるかもしれないのに。
私たちは一体善人なのか、悪人なのか。ついつい自分を善人の側においてしまっていることが多いのではないかと思う。実際私たちはきっと悪人なのだ。神に従えない、神の言葉にそむいてばかりの悪人なのだ。しかしそんな私たちに対しても、神は太陽を昇らせ雨を降らせてくれている、善人と同じように恵みを与えてくれているのだ。
あなたは一体どこに立っているのか、善人の側か、悪人の側か、実はそこを私たちは問われているのだろう。聖書を読んでも何の喜びもない、できもしないようなことばかり命令されていると感じているとしたら、それは自分をいつの間にか善人の側においてしまっているからかもしれない。
罪深い私を赦し、神の子として下さっていることに感激して喜ぶ、そこから私たちの信仰が始まるのだ。だからあなたたちは神の言葉を聞いて神の子としてふさわしく生きなさい、敵を愛して生きなさいというのだ。
そして何よりもイエスが私たちを愛してくれている。どうしようもない私を、悪人の私を赦してくれ、徹底的に受け止めてくれている。だからイエスは、そんな私の言葉に従いなさい、私がしたように敵のために祈りなさい、と言っているのだろう。
聖書教育に、祈ると言うことは神に向かうことだ、というようなこと書いていた。悪人がいると私は大概その人に向かって文句を言う。二人だけの世界を作る。でもそんな時にも、ただ相手だけを見るのではなく神に向きなさいということなのかもしれない。
昔心理クイズというような本を読んだことがある。その中に、アメリカとソ連が競争するように人工衛星を打ち上げてた時代に、お互いに相手より優れたものを作ろうと考えていた。その時に奇しくも両方が同じシステムを採用することになったがそれは何か、というような問いがあった。答えは乗組員が複数搭乗する時には二人にはしないで3人にした、ということだった。必ずそうしたのかどかはよく知らないけれども、アポロ11号でも13号でも確かに3人だった。なんで二人にするかというと、二人だと仲違いした時になかなか仲直りできないからだったと思う。でも3人だと二人がけんかしても、もう一人が修復できる、というような理由だったと思う。
憎らしい相手だけを見ていると憎らしい思いが募るだけになりがちだが、もう一人いて、そっちの人に目が向くとそれだけでも気分も多少変わるというのは事実だろうと思う。
私たちはいつも敵と向かい合っている時でも、そこには決して二人だけではない、そこにはイエスもいる。私たちは憎らしい思いを持つこともある。赦せないという思いでいっぱいになることもある。けれどもそこにもイエスはいる。私たちの全てを赦し、全てを受け止めてくれている、愛してくれているイエスが、いつもいてくれている。その相手をも愛し、赦し、憐れんでいるイエスがそこにいるのだ。憎らしい相手と自分だけの二人だけならば相手を愛することなんかきっとできないだろう。でも決して二人だけになることはない。必ずイエスが一緒にいる。だからその人のために祈りなさい、その人だけを見るのではなく、イエスを見なさい、イエスを通してその人を見なさい、と言われているのだろう。
本当に敵を愛し親切にできるだろうか。やっぱりできないと思う。しかしイエスはそうしなさいと言うのだ。愛しなさいというイエスがそこにいる、そのイエスをしっかりと見つめること、こんな人をも愛しなさいと言っているのでしょうか、とイエスに問いかけることしかないような気がする。イエスはどう答えるのだろうか。その答えをしっかりと聞いていきたい。でもそれもまた祈るということなんだろうと思う。