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礼拝メッセージより
「祝福泥棒」 2008年8月24日
聖書:創世記 27章1-29節
祝福
神の祝福は人間の思いを遙かに超えたところで引き継がれていくということらしい。
イサクは自分の井戸を取られると違う所へ行って新しい井戸を掘り、そこを取られると又違う井戸を掘りというような、なるべく争いを避けるような人物だったようだ。でもきっとイサクの家族や家来たちにとっては何とも頼りない、こんな人についていって本当に大丈夫なんだろうか、と思うような人物だったのではないかと思う。もちろんイサク自身も、自分の掘った井戸を取られることに対しては相当な屈辱や敗北感を持っていたのではないかと想像する。それでも戦う自信もなく、争うよりは自分から退くような性格の持ち主だったのではないかと思う。
イサクは自分の親族であるリベカと結婚したが、その結婚相手も自分が選んだわけではなく、父であるアブラハムが家来を自分の親戚の所へ行かせて連れて来てもらったリベカと結婚した。自分から積極的に出かけていく、欲しいものを必死に手に入れようとするようなことがまるでない人間だったらしい。消極的な、いわば男らしくない、と言われるような人間だったようだ。
でもそんなイサクがアブラハムに与えられていた祝福を受け継いでいた。イサクはアブラハムにとっては長子ではなかったわけだが、アブラハムの本妻のサラの子であったことから、またアブラハムと奴隷との間に生まれた兄のイシュマエルが追い出されていたことから長子としての権利と祝福を受け継ぐこととなったようだ。
双子
イサクとリベカの間には双子が産まれた。兄がエサウ、弟がヤコブだった。二人は成長すると、エサウは巧みな狩人となり野原を駆け回っていたが、ヤコブは天幕の周りで働くようになった。
イサクは狩りの獲物が好物だったのでエサウを愛し、リベカはヤコブを愛するようになった。ある時、ヤコブが煮物をしていると兄のエサウが野原から疲れ切って帰ってきて、ヤコブにその煮物を食べさせてくれと頼んだことがあった。ヤコブは長子の権利を譲ってくれ、今すぐ誓ってくれ、ということを条件としてパンと煮物を与えたことがあった。
ヤコブにはそんなずるがしこい面がある。相手が空腹な時にそれをえさにして長子の権利を奪ってしまった。長子が家の財産を継ぐということが当たり前の時代であったわけで、その権利を一回の食事で奪ってしまったというのもすごい話しだ。もちろんそれで譲ってしまう方もどうかしているという気もするわけだが。
祝福
やがてイサクが年を取り目がかすんで見えなくなった時、エサウに祝福を与えようとしたのが今日の箇所である。
イサクは長男のエサウに祝福を与える前に、獲物を捕ってきて美味しい料理をつくってくれるように頼む。それを聞いたリベカはヤコブをそそのかしてイサクを騙してその祝福をだまし取る。一度祝福したことは取り消しがきかないということでエサウはヤコブ殺害を計画し、それを聞いたリベカはヤコブを兄のラバンの所へ逃がす。
何とも納得できない話しが書かれている。祝福が一つしかなくて、一度それを口にするともう変えられないことになっている。しかも、策略を用いてだまして得た祝福でも有効であるということになっている。そんなのがありなんだろうか。いったい祝福とはなんなのだろうか。
普通祝福された人生というのは、欲しいものは誰よりも多く手にはいり、何でもかんでもうまくいくような人生という記がする。でも祝福を手に入れたはずのヤコブがその後順風満帆な人生を送ったかというと決してそうではなかった。
ヤコブはその後、怒ったエサウから逃げておじのラバンのところへ行きそこで働くことになる。ラバンの娘と結婚することになる。すると兄を騙したヤコブが、今度はおじのラバンにだまされて好きではなかった姉の方と先に結婚させられてしまうことになる。そして妹と結婚したかったらもっと働けと言われて、そのために結局は20年間も働かされる羽目になる。
ほとんど我慢の限界がきて父故郷へ帰ろうとするわけだが、そこには自分が祝福をだまし取った兄のエサウがいるわけで、いくらラバンの下で働くことがいやになっても、そうやすやすと帰っていくわけにはいかない。
そんな風にどこにも行き場がなかったヤコブだが、どうしてもおじのラバンのところから出たかったようで、兄がどう思っているか、帰ったらどうなるのかをいうことを心配しつつ帰ってくる。結局はエサウはヤコブのことを暖かく迎え、ヤコブの心配は杞憂に終わることになった。騙された側のエサウは、そのことをすでに昔のことと思えるようになっていたみたいだが、騙した側のヤコブは騙したことを20年間ずっと抱えたままでいたということなんだろう。
またヤコブにはイスラエルの12部族の祖先となる12人の子どもたちが生まれたが、好きではない方の妻から生まれたこどもや、妻たちの召使いから生まれた子どもなどもいた。その中でヤコブは自分の好きだった妻の生んだこどもばかりを可愛がったため、兄弟は母親の違いによって仲の悪い兄弟で、殺害を計画するようなありさまだった。
そんな風に、祝福されたからといっても、ヤコブの人生が何もかもうまくいったわけではない。兄と父をだましたことによって彼の人生はとてもつらいものとなった。母親のリベカも、自分の愛するヤコブを兄のところへ送ったのはいいけれども結局その後ヤコブと会うことは出来ずに死んでしまった。
ヤコブもリベカも、家族をだましたことの裁きを受けていると言ってもいいような人生を歩んだわけだ。家族はバラバラになってしまった。
けれども、そんなヤコブを神は祝福したということなんだろうか。イスラエル部族の祖先で族長と言われるアブラハム、イサク、ヤコブである。イサクもヤコブもアブラハムの祝福を受け継ぐものとなっていったわけであるが、イサクもヤコブも長男ではない。イサクは兄が追い出されたことによって祝福を受け継ぐものとなり、ヤコブは兄をだまして受け継ぐものとなった。いかにも人間的な思惑と勝手なごり押しで祝福を手に入れてしまったかのようである。そんなのでいいんだろうかと思う。
結局は、本当はこの祝福を受け継ぐ者は、イサクでありヤコブであると初めから神は決めていたのではないかという気がする。もちろんイサクやヤコブがいい人物で信仰深いからそうしたとかいうのではなく、それこそ人間的に見れば神のきまぐれとしか思いようのない、ただ神がそう決めたとしかいいようのないことでたまたま神に選ばれたということのような気がする。ほとんどそうとしか思えない。イサクもヤコブも信仰深いどころか、肉料理が好きだからエサウを愛するとか、鍋と長子の権利を引き換えにしてしまうとか、食べ物によって人生を左右されてしまうそんな人間だ。人間の欲望とエゴがたっぷりな者たちだ。それでも神は彼らを祝福する。
アブラハムに神が語りかけられた時こんなことを言っている。
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(12:1-3)
地上の氏族すべてを祝福に入れるためにアブラハムを祝福しているということなんだろう。そうすると、祝福されるとはそれをすべての者へその祝福を行き渡らせるためなのかもしれない。地上に祝福を行き渡らせるために神がアブラハムを、イサクを、ヤコブを選んだのだろう。
彼らが信仰深いわけではない。立派な人間でもない。私利私欲にまみれていると言った方がいいような人間だ。親子の関係も、兄弟の関係も、どろどろしている。でもそんな人間によって祝福は受け継がれていく。
私利私欲という面では私たちも同様だろう。神の祝福さえも、恵みさえも、自分が一番に欲しいと思う。でも祝福も恵みも、実はそれをすべての人に行き渡らせるために与えられているものなんだろう。
私たちは全ての人に神の祝福を行き渡らせるために神に選ばれているのかもしれない。祝福されるということは、周りの人にそれを分けていくためなんだろう。神の祝福の運び人となっていくことなんだろ。それは誰かのために自分を献げていくことでもある。そうすると祝福されるということは、誰よりも祝福された者が大変な思いをすることでもあるのかもしれない。でも誰かのために自分を献げること、誰かのために働くこと、そこに本当の喜びがあるのだろう。祝福とはその喜びを経験するために神から私たちに与えられたつとめのことをいうのかもしれない、と思う。