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礼拝メッセージより
「赦し」 2008年9月7日
聖書:創世記 33章1-20節
不安
父のイサクと兄のエサウを騙して祝福を横取りしたヤコブは、母リベカの言うように母の兄、ヤコブから見るとおじとなるラバンの所へ逃げていくことになった。表向きは妻を迎えるためということだったが、実際は兄のエサウが怒って殺されかねないために遠くへ逃げ延びていくということだった。
そして逃げる途中に、神から「あなたの子孫は砂粒のように多くなる、わたしはあなたと共にいる、あなたがどこへ行ってもわたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る」と告げられる夢を見たことが28章に書かれている。
祝福を横取りするという作戦はうまくいったけれども、そのために兄の恨みを買ってしまい、母の故郷ではあるけれども見知らぬ土地に逃げていかないといけないという不安を抱えていた時に見た夢だったのでヤコブはとてもうれしくなったようだ。そこで記念碑を建てて、神がずっと守ってくれて無事に帰れるなら自分に与えられるものの十分の一をささげます、と約束している。
しかしこの地に連れ帰る、という神の約束から実際に帰るまでは20年かかった。父と兄をだまして祝福を横取りしたヤコブだったけれど、逃げていった先では、おじのラバンに騙されてしまう。ラバンの娘の妹を好きになり、妹と結婚するために7年間働くことになる。ところが7年後に好きではなかった姉の方と先に結婚させられてしまうことになる。そして妹と結婚してもいいが、もう7年働けと言われて、そのために結局は20年間も働かされる羽目になる。
そんな調子で何事もおじのラバンにいいように使われてきたヤコブだったが、とうとう我慢の限界がやってきて故郷へ帰ろうと決心する。神から故郷へ帰れと告げられたとも書かれている。きっとさんざん迷ってついに決心したのだろう。
しかし故郷へ帰るのはいいけれども、帰るからには兄のエサウに会わねばならない。20年ぶりの再会だ。ヤコブは不安で不安でたまらない。兄がどんな気持ちでいるのかまるでわからない。
先に使いを出したところ、エサウは400人の者を引き連れてこちらに向かってきたということで、自分に攻撃をしかけてくるのではないかと不安でたまらない。そこで家の者も家畜も二つに分けて、一つを攻撃されても半分は残るようにされた、なんてことも書いている。
故郷へ帰るしかない、しかしそこには自分がだましたエサウがいる、不安で不安でたまらないヤコブは必死に祈った。32章にその祈りが書かれている。「兄エサウの手から救って下さい、わたしは兄が恐ろしい」と祈っている。そして一晩中神と格闘したことも書かれている。これはきっと一晩中格闘して祈ったということなんだろうと思う。祈ったらそれで不安がなくなったというわけではなく、祈っても祈っても不安で不安で、でも祈るしかなくてそのまま朝がやってきた、ということなんだろうと思う。
エサウ
ヤコブがエサウの下から逃げ出して20年経っていた。その間ヤコブはエサウが赦してくれるかどうかわからないでいた。きっと赦してくれていないだろうと思っていた。だからおみやげもたくさん持ってきた。何とかして赦してもらおう、何とかして直接会って赦してもらおうと思っていた。つまりまだまだ赦してくれているなどとは思っていないわけだ。
ヤコブはその思いに20年間ずっと苦しんできたということだろう。家族から離れてそれなりにうまくいっていた。伯父にだまされて好きでもない姉のレアとも結婚させられてしまった。結局姉妹二人を妻としたけれども、妹のラケルと姉のレアとの確執もあった。しかし財産も順調に増えていた。伯父の元にいる間はそれなりにうまくいき財産も増えてきた。しかしエサウを騙したため、そのことでエサウを怒らせてしまった。命を狙うほどに怒らせてしまった。それはエサウをだました側のヤコブがずっと持ち続けてきた重荷だった。エサウからはきっと赦されることはないだろうという思いをヤコブはずっと持ち続けてきた。その重荷を彼は20年間ずっと持ったままだった。そしてその赦されないという気持ちはエサウに会ってからも残り続けていたようだ。
ヤコブはエサウに対して何度も何度も頭を下げる。そしてエサウをご主人様と言い、自分のことを僕、と何度も何度も語る。エサウがヤコブからの贈り物を、自分は何でも持っているから必要ないと言ったけれども、受け取って貰えないと自分の気持ちが済まない、とでも言うように半分無理矢理に受け取らせている。そしてエサウが一緒に行こうと言うことに対しても、子ども達は弱いだの家畜の世話をしないといけないだのと、やんわりとそれを断ってエサウを先に返している。じゃあ、私の共の者を残しておこう、というエサウの申し出も断っている。
ヤコブは自分の贈り物をエサウに受け取らせた、けれどもエサウからの申し出は全部断っている。エサウはヤコブを赦していた。もうすでに赦していた。そしてヤコブを気遣っている。しかしヤコブはそのことをすぐに受け入れることができなかったのではないかと思う。ヤコブはその後もそのことをずっと引き摺って生きていたのではないかという気がする。いつまたエサウが怒り出すかわからないというような不安も持ったままだったのではないかと言う気がする。だからヤコブはエサウと一緒に行くことをしないで、エサウと一緒に住むこともしなかったのではないかという気がする。
案外エサウはそんなヤコブの気持ちが分かったから、贈り物も受け取り、自分と一緒に帰ることも無理強いすることもなく、先に一人で帰っていったのかもしれないと思う。
だからここの主役はエサウのような気がする。神の祝福を奪ったヤコブだった。ヤコブにとっての一番の祝福は、エサウに赦されたということなのではないかという気がする。エサウの赦しによって、ヤコブはその後平穏に暮らすことができるようになった。
驚き
ヤコブはすでに赦されていた。しかしその赦しを実はなかなか受け止めることができなかった。
それは私たちが神の赦しを受け止めることがなかなかできない、ということと似ていると思う。
ヤコブが20年間、兄を騙したことによる重荷を背負い続けてきた。私たちも自分の過去にしでかした過ち、罪に苦しめられている。こんな私は赦されるわけがない、そう思って苦しんできた。しかしヤコブがエサウにすっかり赦されていたように、私たちの罪もすっかり赦されているのだ。イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪は神の前では帳消しになっているというのだ。ヤコブはエサウに会って、自分が赦されていることを知って重荷の多くを降ろした。私たちもイエス・キリストによって赦されていることを知ることで大きな重荷を下ろすことができる。きっとヤコブにも多少の不安が残っていたように、私たちもやっぱり不安になるようなこともあるのだろうが、しかしもう赦されているということは知っているということで、重荷は随分軽いものになる。
ある教会で、戦争の時に相手を殺してそのことで苦しんでいる人が若い牧師に聞いたそうだ。私の罪は赦されているのでしょうか。戦争が終わって何十年もそのことで苦しんできたのだろう。
そんな苦しみから、自分を責める苦しみから私たちを解放させるために、イエス・キリストは十字架で死んで下さった。そして、あなたを赦す、あなたのあらゆる罪を赦す、そう言ってくれている。それは全く驚きの言葉だ。にわかには信じられないような言葉だ。しかし聖書は一貫してそのことを主張する。あなたの罪は赦されている、イエス・キリストにおいてあなたの罪はもうすでに赦されている。
だからあなたは赦されている者として、赦されている者のように生きなさい。なかなか信じられない言葉かもしれない。しかしその言葉を繰り返し繰り返し、真剣に聞いていこう。