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礼拝メッセージより
「無力」 2008年8月17日
聖書:創世記 26章15-25節
イサク
聖書の中では結構地味な存在。アブラハム・イサク・ヤコブの神と言われるが、アブラハムとヤコブが個性的であることと対照的にイサクは地味である。聖書の中の扱いも小さい。
飢饉
26章の最初の所を見ると、イサクの時代に、また飢饉があった。この地方は時々飢饉があるらしい。そこでイサクはペリシテの王アビメレクのところへ行った。このアビメレクは21章22節以下の所を見ると、アブラハムと友好的な関係を結ぶという契約を結んでいる相手である。アブラハムの時代にも飢饉があり、その時アブラハムはエジプトへ行っている。エジプトは豊かな国だったようだ。あるいはイサクもエジプトへ行こうとしてアビメレクのところに寄ったのかもしれない。ペリシテはエジプトへ向かう途中にある、イスラエルから見ると南の方にある地域である。しかしイサクは主からエジプトへ行ってはならない、この土地に寄留するならばあなたを祝福する、といわれてペリシテのゲラルという所に住んだ。
イサクは多くの羊や牛の群を持ち放牧をするのが本来の仕事だったようだが、この土地で穀物の種を蒔いた。あまり慣れないことをしたのだろうと思うが、それでも100倍の収穫があったという。当時は30倍位の収穫が普通だったと書いてある本もあったが、かなり多くの収穫があったということらしい。神がこの土地にいれば祝福する、と言われたことがその通りになったということでもある。
黙々
ペリシテ人はイサクにことを決して快く思っていたわけではなかった。イサクは父アブラハムが掘っておいた井戸をふさがれるというような嫌がらせをされる。
水があるかどうかということは死活問題である。多くの羊や牛を持っているイサクにとってはなおさらだったろう。命のもとでもある大切な井戸をふさがれてしまうというのは大変陰湿な嫌がらせである。そしてイサクが多くの収穫を得て、豊かになるとなお一層ねたまれて、アビメレクからはここから出ていっていただきたい、なんて言われてしまう。
アビメレクがアブラハムと契約を結んだ時に、アブラハムはアビメレクの部下が井戸をふさいだということを責めているが、その時アビメレクはそんなことは知らなかった、なんて言っている。もしかしたらアブラハムの時も、イサクの時も本当はアビメレクの差し金だったのか、なんて思いたくなる。
せっかく豊かになり力も付けてきたというときに、イサクはその土地から追い出されてしまう。イサクはよそから来ている寄留者である。よそ者であるイサクはそうそう現地の者と争うわけにもいかない。アブラハムがいたときにはアブラハムとの契約もあり、それなりに相手も遠慮していたのであろうか。あるいはアブラハムの力におそれを持っていたのかもしれない。しかしそのアブラハムも死に、息子の代になるとまた嫌がらせをされてしまう。
しかしイサクはそのことでペリシテ人と闘おうとすることはしない。彼はゲラルの谷に天幕を張って住み、そこにあったこれもアブラハムの死後にペリシテ人にふさがれてしまっていた井戸を掘り直しそこで生活する。
ところがその井戸から水が豊かに湧き出るのを見たゲラルにいる羊飼いは、この水は我々のものだ、と言って争う。結局また別の井戸を掘り当てるとそこも取られ、また別の井戸を掘り当てる。ゲラルにいる羊飼いとイサクの羊飼いが争ったというが、どうも徹底的に争ったような雰囲気はないようだ。
そんな時、これは私の父が掘った井戸だ、これはわたしが掘った井戸だ、わたしが見つけた井戸だ、となると自分の権利を主張して争うのが普通だ。横取りされると腹が立つ。
イサクは争いを好まない人だったのだろうか。力ずくでそこを占領するということもしなかったらしい。イサクは最後の井戸をレホボト、広い場所、という名前を付けた。井戸を取られて仕方なく別の場所に移動し、最終的には広い場所を手に入れたようだ。井戸を横取りされるという屈辱を味わいながら逃げて来たけれども、結局はそこで広い土地を与えられたらしい。
祝福
イサクはベエル・シェバに上る。そこはかつてアブラハムがアビメレクと契約を結んだ土地である。そこでイサクは神から、恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。あなたを祝福し、あなたの子孫を増やす、と約束される。
いろんな屈辱を味わいながら、それに対して刃向かうことも仕返しをすることもないイサクである。強い者に翻弄されてきたようなイサクである。しかしそのイサクを神は祝福するというのだ。恐れるな、わたしはあなたと共にいる、というのだ。
逃げてばかりいるような無力なイサクである。いかにも頼りなく見える。抵抗して力で相手をねじ伏せるような強い力のある者こそ価値がある、というような風潮がある。しかし無力な、あるいは事なかれ主義と見えるようなイサクを神は祝福する。
神が祝福しているのは、イサクを励ますということだったのかもしれない。繰り返し祝福を語ることで神はイサクを励まし、安心させようとしているということなのではないかと思う。
井戸から水が出てきたと言っては大喜びし、それをふさがれたり横取りされたりして落ち込み、ということの繰り返しだったのだろうと思う。そのイサクを神は励ます。大丈夫だ。恐れることはない。わたしはあなたと共にいる。あなたを祝福する、と。
契約
たびたび掘り返す井戸はどこも水が豊かに湧き出る。
そんな有り様を見てペリシテのアビメレクたちはイサクと契約を結びに来る。どうして契約をむすぼうとしたのだろうか。少しずつ井戸を取り上げていくよりも、契約を結んで仲良くした方が得だと思ったのだろうか。
28節からのところで契約を結びたいということを言っている。神に祝福されていることを王自身が気がついた、ということなのか。どこに言っても井戸を発見する有り様を見ているうちに、聞いているうちに、敵対していたら何をしでかすか分からない、それなら味方になった方がいいと思ったと言うことなんだろうか。
しかしその中でアビメレク側は、その時に随分勝手なことを言っている。あなたに危害をくわえてはいない、あなたのためになるように計り、あなたを無事に送り出しましたなんて言って。井戸を横取りして追い出しておいて何もしてないなんて戯言じゃないかと思う。
でもイサクはそんな申し出をも受け入れて契約を結んだ。そして祝宴を催して共に飲み食いしたというのだ。
無力
自分につらく当たっていた者なのに、その相手が和解を申し入れてくるとイサクは受け入れてしまう。全く人がよすぎるよ、という気がしてしまう。
イサクは争いからは逃げるような人であったようだ。またいじめられていたのに、その相手から仲直りしようと言われるとすぐに仲直りしてしまう人であったようだ。一見だらしない、たよりない、無力な人間に見える。しかしイサクは神の祝福にあずかっているのだ。
私たちの人生もいろんなことに翻弄されて、それに立ち向かう力もないままに流されてしまうようなことがいろいろとある。思うようにいかないことが世の中には山のようにある。力をつけて、智恵をつけてそれに立ち向かうことができればいいのかもしれないがなかなかそうもいかない。そしてそうできる者こそが優れた者であるかのような風潮がある中で自分の駄目さが余計に身にしみてくる。イサクを見ているとそんな強い人とはまるで違う、対極にあるような人に見える。いかにも無力に見える。しかしそのイサクを神は祝福する。共にいて、恐れるなと言ってくれているのだ。
運命を切り開いて自分の願いを叶えていく、自分の望んだ通りの生き方をする、それはそれですばらしい。しかし必ずしもそうそう願い通りにいくばかりではない。むしろ思ってないこと、願わないことばかりが起こるのが人生だ。運命にもてあそばれているかのように右往左往するのが私たちの人生だ。しかしそこに神が共にいるならばそれは私たちにとっては祝福の人生なのだ。
恵み
イサクがゲラルに住むようになってそこにいつまでもしがみついていたとしたら、いつまでも敗北感と屈辱に捕らわれたままであっただろう。本当はゲラルにいるはずだったのに、あいつらに取られてしまった。あいつらのせいで苦しい思いを何回もさせられた、なんて気持ちをずっと持ったままになっていただろう。しかしどうやらイサクは敗北感と屈辱に捕らわれたままではないようだ。彼はいかにも敗北したようなことを通して、新たなものを発見していくことができている。そこで結局は広い土地が与えられた、という気持ちになっている。思うようにいかないことにいつまでも捕らわれているのではなく、どうやら新しく目の前にあるもの、新しい状況を受け止めることが出来ているようだ。昔のものにいつまでも引きずられていくのではなく、流されるままに、またそこにあるものを見ていっている、新しい状況を感謝していっている、そういうことの出来る人だったのかもしれない、と思う。柳の木の枝のように、風に吹かれてすぐ揺れはするけれども、決して折れることはない、そんなしたたかさも持っていたということかもしれない。
なくしたものにいつまでも引きずられていくことが多いのが私たちの常だろう。昔は金持ちだった、元気だった、何でもできた、友だちもいっぱいいた、でも今はすっかりなくなってしまった、といったような時に私たちは、ああ、あれもなくなった、これもなくなった、といつまでも昔のことに引きずられてしまうことが多いのではないか。その喪失感のために、今目の前にあるもの、残っているもの、新しくそこにあるものまでが見えなくなってしまっていることが多いのかも知れないと思う。
あなたたちといつも共にいる、それがイエス・キリストの約束である。流されてもころがされてもいつも共にいる。それが神の約束である。
運命に翻弄されているかのように私たちは生きている。過去に縛られ、過去の失敗と後悔と罪の重荷を背負って潰されそうになりながら、打ちのめされながら生きている。自分の人生を自分で切り開く力も勇気もないままに、流されるままに生きている。しかしそんな私たちといつまでもどこまでも共にいる、それがイエス・キリストの約束である。お前のことは全部わたしが面倒を見る、お前の罪も全部わたしが背負う、わたしがお前を赦す、だから自分の駄目さに縛られる必要もない、もう過去に縛られる必要はない、だから過去に縛られ過去に生きるのではなく、また未来を心配して未来に生きるのでもなく、今を生きなさい、今をしっかりと見つめていきなさい、イエス・キリストはそう言われている。
だから私たちも流されながら転がされながら敗北しながら、でもその場その場で与えられたものをしっかりと見つめていきたいと思う。そしてどんな時でも共にいてくださる神を見上げ、新たに与えられた恵みに感謝していきたいと思う。