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礼拝メッセージより
「約束」 2008年7月13日
聖書:創世記 15章1-6節
子ども
昔どこかで聞いたか読んだかした話だが、その人は結婚してしばらくたっても子どもができなかった。そして子どもがいないという話しになると、そうなんだということで話しが終わることはほとんどなくて、どうして子どもを生まないのか、と聞かれたそうだ。その人は妊娠しにくかったそうだが、子どもを産まない理由を説明するためには自分の体のことまで話しをしないといけなくなってしまう。そんな極めて個人的な自分の体の中のことを、それほど親しくもない人にまで話したくない、だからどうして子どもを産まないのかと聞かれることがとても苦痛で、そう聞かれる度に自分が欠陥のある人間のように思う、というような話しだったと記憶している。
今でも似たような状況があるんじゃないかと思う。子どもがいないことは正常ではないかのような見方があるような気がする。
アブラムの時代でも子どもがいないということは、神の祝福にあずかっていないことであるような考え方があったようだ。周りからも祝福されていない夫婦と見られていたのだろうし、そしてアブラム自身も自分たち夫婦のことを祝福されていない夫婦だと思っていたのだろう。
創世記15章を見ると、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ事が書かれている。その時、あなたの受ける報いは非常に大きいであろう、と言われることに対して、アブラムは、わたしに何をくださるというのですか、わたしには子どもがありません、と答えている。神が大きい報いをくれると言っているけれども、多くの人が与えられている子どもさえも与えられていないのに何を言っているのか、という気持ちがあったのだろう。子どもさえいないのに、報いは非常に大きいなんておかしいじゃないか、という気持ちだったんじゃないかと想像する。子どもがないから、今こうやって手許にある財産も、家の僕が、奴隷が引き継ぐことになっているんですよ、と言っている。言わば神に対する恨み節を言っているようなものなんだろう。
それほどに子どもがいないということはアブラム自身にとっても苦しみでもあったのだろう。
約束
でもそんなときに神はアブラムに、あなたから生まれる者が跡を継ぐという。実際に子どもがいてもその子が跡を継ぐがどうかわからないのに、子どもがいないのにその子どもが跡を継ぐなんて言われるわけだ。そして天を仰いで星を数えることができるなら数えてみるがよい、と言われる。
今は町中では星は数えることができそうな位しか見えない。でも電気のない時代の夜は今よりもよほど多くの星が見えていたことだろうと思う。星をじっと見ているとどんどん沸き上がるように見えてくる。とても数えられない星が見えていたことだろう。
あなたから生まれる者が跡を継ぐ、そしてあなたの子孫がこの星のようになる、と言うのが神の約束だ。しかし目に見える現実は、子孫はまだ一人もいないのだ。
アブラムは主を信じた、と言う。アブラムはこの言葉を幻の中で聴いたと言う。どのように聞こえたんだろうかと思う。どういう風に聞こえたから信じられたのだろうか。そんなこと信じられるのだろうか。どうして信じられるのだろうか。
神の声に従って生まれ故郷を出てきたアブラムだった。飢饉の時にエジプトに行き、いざこざもあったようだが、財産も増えてきていたようだ。財産は増えてきていたみたいだけれども、一番欲しかったなんじゃないかと思う子どもだけは生まれなかった。一番欲しい子どもが生まれる、そして子孫が数え切れなくなる、という約束はうれしい約束だ。本当にそんなこと起こるなら願ったり叶ったりだ。アブラムはそれを信じた。素直というか単純というか。案外嬉しいことを言われてそのまま信じた、ということなのかも。
そして主を信じたことを、彼の義と認められた、と言う。義と認められるということは正しいことだ、そのれでいいのだということのようだ。
アブラハムは信仰の父であるというような言われ方をよくする。とても信じられないようなことでも信じてきた人なんじゃないかと勝手に想像していた。時には厳しい命令を出すようなこともあったようだ。けれども神の約束は実は信じたくなるような約束みたいだ。神から示す地に行けというけれども、その時の約束はあなたを祝福するというものだった。そして今日のところでは子どもが跡を継ぐことになる、子孫は星の数のように数え切れない程多くなる、と言う約束である。
お前を祝福すると言われることもうれしいことだし、ずっと期待している子どもが生まれるということもうれしいことだ。そんなうれしいことを約束されて、それを信じたことを義と認められたというのだ。嬉しい約束を素直に信じることを、神はそれでいい、それは正しいことだ、と言われているのかもしれない。苦しいことを言われてそれを信じて従うことは大変難しいことだけれども、嬉しい約束をしてくれたら誰でも信じたくなる。神を信じるということは実はすごく単純でやさしいことかもしれない。
もちろん厳しい月の中では、単純に神の約束を信じられないのかもしれない。アブラムも子どもができないということを考えると途端に元気がなくなる、途端に寂しくなってしまうというような状況だったんではないかと思う。でも神の約束はきっとアブラムに元気を与える約束だったことだろう。疑いのかけらもなく信じたわけではないだろう。途端に元気もりもりになったわけではなかったかもしれない。本当はそんなことないかもしれないという不安な気持ちを抱えつつ信じていたのだろうと思う。不安や心配といっしょに、本当にそうなったらどんなにうれしいだろうかというような、わくわくする気持ち、元気のかけらがその時から生まれたのだろう思う。
神を信じるということは、信じられない気持ちや、疑う気持ちを全部捨ててなくすことではないだろうと思う。信じられない、本当だろうかと思う気持ちをいっぱい持ちつつ、でも信じよう、信じたいという思いを持つこと、それが神を信じるということなんだろうと思う。
そしてそれを神は義としてくださるのだと思う。あなたを祝福する、一番良い物を与える、神は私たちに対しても、私たちがうれしくなるような、信じたくなるような約束をしてくれている。