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礼拝メッセージより
「旅立ち」 2008年7月6日
聖書:創世記 12章1-9節
新天地
新しい土地へ行くということは大変なことだ。知らないところへ行くという不安もある。それと同時に、今までいたところから離れなければならないということでもある。それまで持っていたいろんなつながり、人間的な関係もあるだろうが、そんなつながりを切っていかないといけない。今ならば世界の裏側にいても一日か二日あれば行けるみたいだ。会いに行かなくても連絡を取る手段もいろいろとある。旧約聖書の時代には電話もないし、メールを送ることもできない。何百qも離れた所へ行ってしまうともう二度と会えないかもしれいない、というような状況だったのではないかと思う。
そんな風に新しい所へ行くということは、それまで築いてきた生活の基盤をなくすようなものでもある。そして新しい土地で新たに基盤を作り直さないといけないわけだ。大きな木を植えかえるようなものだろうと思う。木を植えかえる時は、地中に張っている根っこをある程度切らないといけない。そして植えかえた新しい土地で新しい根を張っていく。うまく根が張らないと枯れたり倒れたりするようだ。旅立つということは、根っこを切って、新しい土地でもう一度根を張っていかないといけないという大変ことだ。
約束の地
アブラムは後にアブラハムと名前が変わるが、聖書では信仰の父と言われるようになった人だ。そのアブラムは神から、わたしが示す地へ行くようにという命令を受ける。でもどこが示す地なのかという説明はない。ただ神が示す地に地ということでそこがどこなのかはまだ分かってはいない。よその土地へ行くということはいろんな不安がある、その上に行く先がハッキリしないうちに出発しなければいけないのだ。落ち着く先が分かっていればそこでどういう生活が始まるかということもある程度は想像できる。しかしそれができないわけだ。そうとうな心配があったに違いないと思う。そこへ自分の妻と財産と、そして甥と一緒に出発する。全財産を携えて出かけたのだろう。ということはもう帰ってくるつもりもない、ということだろう。
おかしな土地だったら、命の危険にもさらされるかもしれないわけだ。神は示す地へ行けと言う。アブラム自身の中にも多くの心配があったことだろう。
祝福
しかし神の命令はただ命令だけではない。ただ行け、というだけではない。
命令と一緒に祝福の約束がある。わたしが示す地に行けというのは、ただ今いるところを捨てて、そこで自分ひとりで裸一貫で生きていけ、神の命令だから絶対に逆らえないからそうしろというのでもない。神の命令に逆らったら何が起こるか分からない、だから命令通りにしろ、というのでもない。
祝福がそこにあるから出ていけ、といのだ。私の命令に忠実に落ち度なく従ったらご褒美に祝福するというのではない。何もないところへ出ていけといっているのではない。祝福のあるところへ行け、と言ってるのだ。おまえを祝福すると私が決めた、だから生きなさいというのだ。あなたを大いなる国民にし、祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるようにする、だから私の示す地に生きなさいという。あなたを祝福の源とするように私はもう決めた、もうそうすることに私は決めたのだ、ということだ。
そうすると私は決めた、だからわたしの示す地に行きなさい、というだの。
どうしてアブラムを祝福するのか。その理由はない。神がそうしたから、としか言いようがない。
約束
また神の祝福の約束は、「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」というものだった。
これを見るとアブラムを祝福するのはアブラムだけにいい思いをさせようとするという祝福ではない。アブラムを祝福することですべての氏族を祝福に入れるというものだ。
出発
アブラムはこの神の祝福の約束を聞いて出発した。妻のサライと甥のロトと財産を全部持って出発してカナンの地方へ、今のイスラエルの地方へと向かっていった。
そしてシケムというところのモレの樫の木まで来た。そこはカナン人たちの宗教活動が行われていた所だそうだ。つまりアブラムは異なる神を礼拝する民の所へ行った訳だ。そしてそこで神はこの土地をあなたの子孫に与えるというのだ。
神の命令に従って行った先が、異教の神々を礼拝する民のまっただ中であったということだ。そこはパラダイスではなかった。みんながアブラムを歓迎したわけでもないだろう。そこでアブラムはどんなことを考えたのだろうか。祝福がどこにあるのかということをいつも考えていたのではないかと想像する。
アブラムはそこで祭壇を築き、主の御名を呼んだという。きっといろんな不安があっただろう。想像していたものとは全然違うという厳しい現実があったかもしれない。しかしそこでアブラムは主の名を呼んだのだ。
神の命令に従ってここまできた。しかしアブラムの心の中には心配が渦巻いていたのだろうと思う。今後どうなるか、という不安でいっぱいだったのだと思う。アブラムは神に祈るしかなかったのだろう。それもただかっこよく祈るのではなくて、神を呼んだのだ。淡々と祈れるような心境ではなく、神よ、主よ、と大声で呼んだのではないかと想像する。
その後にもアブラムはいろんな大変なことも経験する。神の約束はなんだったのかというような思いにもなったのではないかと思う。
神の祝福は、自分が思い描くような夢物語が現実に起こるということではなく、自分の力で何もかも思い通りにできるようになるというのでもないということを思い知らされたことだろうと思う。大変なことも、思うようにいかないこともいろいろと起こっている。いったいどこに祝福があるのか、これが祝福なのかと思うようなことばかりだったのではないかと思う。
しかしだからこそアブラムは神の名を呼んだのだろう。もうどうしていいか分からない時、不安で不安でたまらない時、アブラムは神の名を呼び続けたんじゃないかと思う。でもそうすることでアブラムは支えられてきたのだろう。
応答
私たちも厳しい現実の中に生きている。そんな中で私たちも神に招かれている。神の祝福に招かれているのだ。確かに祝福に入れられたといっても一体何処が祝福なのかと思うようなことも多い。神に聞いて従ったのにどうしてこんなのだ、と思うようなこともある。神はどうして自分の願いどおりに私の周りを、私の周りの人を、そして世界を変えてくれないのかと思う。しかし神の祝福は変わらない。私たちが疑ったり信じなかったりするときでも神の祝福は変わらない。そんな祝福に私たちも招かれているのだと思う。
わたしが示す地に行きなさい、わたしが示す務めを果たしなさい、と私たちも言われているのではないか。私たちは、どこへ行くように、何をするように言われているのだろうか。