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礼拝メッセージより
「わかってくれたら」 2008年7月20日
聖書:創世記 16章1-16節
待つこと
楽しいことを待つことは、それが何時のなるのか知らなくてもわくわくする楽しい時間となる。しかしそれがなかなか実現しないとなると、だんだんと苦しい思いにもなる。
小学校の3年から4年になる春休みに大阪で万国博覧会というのがあった。そこに行った時に、よく知らないけれど誰かの家に泊めて貰った。そこにルーレットのおもちゃがあった。そのおもちゃをすごく気に入って遊んでいたら、そこのおじさんが、そんなに好きならということでくれることになった。荷物になるので後で家に送ってくれる、ということになった。
家に帰ってから郵便がくる時間を楽しみにしていた。今日は来るか、明日は来るかと何日も待った。楽しみにして待っているので、それだけ今日も来なかったという失望も大きくなった。結構待ったけれど、そのうちもう来ないかもしれないという気持ちになってきた。来て欲しいという気持ちがだんだんと薄れてきて、もう来ないんだろうなと思う気持ちがだんだんと大きくなってきた。
そのルーレットは未だに届いていない。
約束
ずっと子どもがなかったアブラムだったが、15章で自分の子どもが跡を継ぐ、そして子孫は星の数程に多くなる、という神の約束を聞く。
子どもがないことが、神に祝福されていないことであるというような考えを持っていた時代なので、アブラムも妻サライもきっととても喜んだことだろう。そして子どもがいつできるか、今日か明日かと指折り数えていたのではないかと思う。でも今月もできなかった、また今月も、という風に、楽しみよりも失望の方が少しずつ大きくなってきたんだろうと思う。そして本当にできるんだろうか、という不安もだんだんと大きくなってきていたんだろうと思う。
その心配はアブラムよりも妻のサライの方が大きかったのだろう。アブラムの子どもが後を継ぐことになると約束された。けれどもそれは自分の子どもではないかもしれない、という気持ちになって来ていたのだろう。
サライにはハガルという女奴隷がいた。奴隷がどういう立場なのかよくわからないけれども、当時奴隷は人間というよりも財産、つまり道具というような考えだったそうだ。自分の奴隷は自分の道具のひとつだったようだ。
サライは自分の持ち物である奴隷が産んだ子どもも自分のものなのだから、と考えたのだろうか。そしてどちらにしてもアブラムの子どもなのだ、と自分自身にも言い聞かせて、アブラムにもハガルとの間に子どもを作るようにと願い出たのだろう。
ハガルがこのことをどう考えたのかは分からない。しかしサライの奴隷なので、たとえいやだったとしても主人の言いつけに背くことは難しかっただろう。 そしてサライの思惑通りに、ハガルはアブラムの子を身ごもる。そうすると主人であるサライを軽んじた。それまでサライとハガルは、主人と奴隷であるという主従関係がはっきりしていた。けれどもハガルが妊娠することで、それだけではない関係が生まれた。跡継ぎを生める者と生めない者、という風に立場が逆転した新しい関係が生まれた。
サライにとっては奴隷のハガルにアブラムの子を生ませるというのは、もうそれしかない、仕方のない、言わば苦渋の選択だったことだろう。ところがそうすることで思いもよらぬ辛い目にあうことになってしまった。
サライはアブラムに、こんな不当な目に遭ったのはあなたのせいです、と言っているがどうなのだろうか。八つ当たりの様に聞こえるけれど。アブラムは、お前がそうしろと言ったからしたまでのことじゃないか、と言いたかったんじゃないかと思う。だから、奴隷はお前のものなんだからお前が好きにしたらいいじゃないかと答えた。要するに、俺の所に文句を言ってくるんじゃなくて、勝手にしろよ、と言いたかったんじゃないかと思う。
ハガルはサライが辛く当たるようになったために逃げ出した。どれほど辛かったのだろうか。
使い
逃げ出したハガルに主の使いが現れる。そして「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」と声をかける。そしてサライのもとへ帰って従順するようにという。また、あなたの子孫を数え切れないほど多く増やす、あなたは男の子を産む、その子をイシュマエルと名付けなさい、主があなたの悩みをお聞きになられたから、何て事を言う。その子は兄弟全てに敵対して暮らす、なんて妙なことも。
その子が兄弟に敵対して暮らす、ということはなんなんだろうと思うけれども、子孫が多くなるということはアブラムに告げた約束そっくりだし、男の子を産むからこれこれと名付けなさい、なんてのはマリアに告げた言葉とそっくりだ。
主人のもとを逃げてきた奴隷とはどういう立場なのだろか。そもそもどうしてハガルは奴隷になったのだろうか。アブアムに買われたということなんだろうか。なんにしても、女性が一人で子どもを産むということは大変なことだったろと思う。逃げ出して故郷のエジプトを目指してはきたけれど、荒野でひとりぼっちになって考えることは目の前にある困難に対する大きな不安だったのではないか思う。これからいったいどうなるのか、どうしたら良いのか、不安で不安でたまらなかったんじゃないかと思う。
主の使いはそんなハガルの不安な気持ちをしっかりと受け止めてくれたのだろう。だからこそハガルは、エル・ロイ、あなたこそわたしを顧みられる神です、と言ったのだろう。
分かってくれたら
昔ラジオで聞いた話を思い出す。うろ覚えだけれど、ある人が中学生の頃だったか、母親を亡くした。でもその人は悲しい姿を見せてはいけないと思って気丈に振る舞ってきた。自分が泣いたりすると父親が辛い思いをするだろうと思って人前では無理して平気な顔をしていた。でも実際はそれはとても苦しいことだったそうだ。
何年か経ってから、その人のおばあちゃんと話しをしている時昔の話しになった。そしてそのおばあちゃんが、お前は時々一人で泣いてたよね、あの頃は辛かっただろう、と言ったそうだ。それを聞いた時、自分の辛さを知ってくれていたんだ、自分の苦しさを知ってくれている人がいたんだということが分かって、それまで突っ張って強がっていた気持ちがふっとほぐれて、表に出さないで押さえ込んでいた辛さもふっと軽くなったそうだ。
自分の辛さを分かってくれること、その辛さを理解できなくても、自分が辛く苦しんでいるということだけでも分かって貰えることで人間は随分楽になれるようだ。
ハガルも自分が辛く苦しんでいることを分かってくれる方がいることを知った、主が分かってくれていた、だからサライの元へ帰る力が出てきたのだろうと思う。
だからと言ってハガルの周りの状況は何も変わってはいない。神がハガルの周りの状況を変えてくれたということもない。でもきっとハガル自身は変わったのだろう。ひとりぼっちで苦しんでいたハガルは、神と一緒に苦しみようになったのだ。
祈り
主の使いがハガルのところへ来た。これは私たちが祈ることと同じなのではないかと思う。
私たちも祈っても私たちの周りの状況が変わることはあまりない。祈っても病気が治ったり金持ちになったり偉くなったりすることはほとんどない。そんな風に祈りのよって自分の周りの状況や周りの人間を変えることはとても難しい。
しかし祈ることで私たちは自分自身が変えられる。神がこのわたしの苦しみを知ってくれている、わたしの悩みを聞いてくれる、そこから私たちは変わっていく。一歩を踏み出す力が生まれてくる。