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礼拝メッセージより
「裏切り者も」 2008年6月22日
聖書:マルコによる福音書 14章12-26節
過越の食事とは、
エジプトで苦しんでいたとき、神がイスラエルの民をエジプトから脱出させたときの話。エジプトの初子はみんな死んでしまった。しかし鴨居に羊の血を塗っていたイスラエルの人の家はその災いが過越していった、それまでのいろいろな災いに対しても、イスラエルの民を去らせなかったエジプトの王も、この災いによって、とうとう去らせた、そのことを記念して年に一度過ぎ越の祭りの時には、かつてと同様にイースト菌を入れないパンを焼いて、小羊を殺してその肉を食べた。
イエスの最後の食事がちょうどその過ぎ越の食事となった。年に一度の特別の食事がイエスの最後の食事となった。そしてそれはイエスと12弟子との食事だった。そこには弟子たちが12人そろっていた。そこにはイエスを裏切るユダもいた。ユダはその時すでにイエスを裏切ることを決意していた、と聖書は語っている。その機会を待っていたということか。
ユダはいったいどんな気持ちでそこにいたのか。
そしてイエスはどんな気持ちでそこにいたのか。食事の最中に、この中に自分を裏切るものがいる、とイエス自身が語っている。イエスにはユダが裏切ることが分かっていたようだ。
どうして裏切ろうとしているユダといっしょに食事をするのか。食事の前に指摘すればよかったのではないのか。裏切り者とわざわざ食事をしてもおいしくないのではないか、と思う。気のあった仲間だけで食事をした方が断然うまい。ひとり変な奴が混じっているだけでその場の雰囲気も変わってしまい、食事もまずくなる。裏切り者はさっさと追い出しといて、大事な食事を気分良く、また厳粛に食べたいと思わなかったのか。
裏切り
キリストの弟子は12人で、その内のひとりがキリストを裏切った、12人足す1、つまり13は、だから縁起の悪い数字である、なんてことを聞いたことがある。さらに、イエスが十字架につけられたのが金曜日だから、13日の金曜日は不吉な日である、なんてことをいう人がいる。13日の金曜日の由来はそんなところでしょうか。違う説があるのかもしれないが。とにかく13は悪い数字、ということになっている、キリスト教ではそうだと思っている人が多いらしい。アメリカ人がそう思っているのかどうかはよく知らないが、アメリカでは13という数字を使いたがらない、ということも聞く。それで裏切り者の名前がユダだというのも結構有名な話のようだ。ぼくも教会に行く前から知っていたと思う。ユダというのは裏切り者の代名詞、になっているみたい。教会の中でもユダとはイエスを裏切った悪い弟子、というイメージがあるのかもしれない。だから何でこの最後の晩餐の席にユダもいっしょにいるのかと思うわけだ。
でもユダだけを悪者扱いしてしまって本当にいいのか。実は他の弟子たちも、みんなイエスを捨てて逃げてしまった、と書かれている。裏切ったのはユダだけではない。いやユダだけは後で悔い改めてイエスに従わなかったから悪いのだ、ということも聞いたことがある。でも本当にそんなに簡単に言ってしまっていいのだろうか。
イエスは、あえてユダを食事の時に同席させたのかもしれない。だから食事の時になって、裏切りの話を始めたのではないか。ユダをあえて食事の席に着かせた、あえていっしょに食事をしようとした。その場に引きずっていった、と言った方が正確かもしれない。イエスはどこまでも、最後の最後までユダを自分のもとにおいておこうとしたのだ。自分からユダを捨てることをしなかった、最後の食事にまでユダを自分の弟子として接した。たとえ自分を裏切ろうとしていても、自分の命を売ろうとしていても、ユダを捨てなかった。
そしてみんながそろっている食事の時に、パンを裂いて、「これはわたしの体である」と言い、杯については、「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言った。
イエスはユダについて、この人は生まれなかった方が良かった、と言ったそうだ。なんと残酷なことばだろうか、と思う。この言葉を聞いて、あまりにひどすぎると言った人がいた。本当にそう思う。そこまで言われるほどユダは悪者だと言うことになってしまいそうだ。生まれなかった方が良かった、なんて言われたらまともに生きていけない。
親からそんなことばを聞かされた子どもは不幸だ。そんなことばを聞かされたために、いつも不安で、あれた人生を送っていく人がいることを聞いたことがある。生まれなかった方が良かった、なんてのはとつてもなく重いことばだ、何でイエスはそんなことを言ったのか。
しかしここの言い方は、親が子どもに向かっておまえは生まれなかった方が良かったと言う言い方とこことは少し違う。親がそういう場合には自分にとって、おまえなんかいなかった方が良かった、と言う言い方になる。生まれなかった方が良かった、と言う人自身にとって、おまえなんか生まれなかった方が、私の人生はうまくいったのよ、ということになる。おまえがいたから私は迷惑しているんだ、ということになる。
しかしイエスは生まれかなった方が世の中のために良かった、とは言っていない。また、おまえが生まれなかった方が私のために良かったとも言っていない。生まれなかった方が、その本人のために良かった、と言っているのだ。親が腹を立てて子どもを叱りとばすのとは違う。
生まれなかった方がそのもののために良かった、とはどういうことか。苦しみを背負い、悲しみを背負いながら人は生きていく。と普通は言う。人は喜びと希望を持って生きていくという風に言うことはあまりない。人生とはそんなものなのかもしれない。苦しみ多き人生だ。しかし生まれなかった方が良かったとはなんと悲しいことばだ。まわりのものにとって生まれなかった方が良かったのではないかというようなことならば分かる気がする。何人もの人を殺した人などは生まれなかった方が世のためかもしれない。しかしそれとて必ずしもその人だけの責任ともいえない。
では生まれなかった方が本人のために良かったとはいったいどういうことなのか。悲しみも苦しみも経験しない方が良かった、と言うことか。キリストを裏切るという重荷を背負うのはあまりにもつらいことだから、それならいっそ生まれなかった方が良かったと言うことなのだろうか。
まさか
一緒に食事をしているものの中に、イエスを裏切るものがいると聞いて、弟子たちは皆、まさかわたしでは、と言い始めた。まさかわたしのことでは。まさかわたしのあのことでは、まさか、私の心の中にある不信仰のことでは、ということか。まさか、と言う時、それはもしかしたら私のことかもしれない、と弟子たちはみんな思ったのだろう。思い当たる節があったか、あるいは裏切らないと言う自信がなかったに違いない。そういう点ではユダも他の弟子たちも、みんな同じである。
そういう弟子たちとイエスは過ぎ越しの食事をする。最後の食事をする。弟子たちを抱え込んで、引きずり込んで行く。イエスは彼らを神の国まで引きずり込んでいっている。裏切り者もユダも、生まれなかった方がそのもののために良かった者もひっくるめて引きずり込んでいく。神の国とはそういうところではないかと思う。イエスに引っ張られていくところが神の国ではないか。あなたは信仰を持っているから入ってもいいですと許可をもらって行くところではないのだろう。イエスに手をつかまれて、引っ張られて行くところが神の国なのだろう。
裏切り者も
この中に裏切り者がいると言われて、まさかわたしのことでは、弟子たちはみんなが不安になった。不安を抱えたままで、私たちも生きている。神の国に入れるのか、天国に入れるのか、不安である。入る自信のある人はいないだろう。自分の力で入ろうとすれば、試験に合格して入るならば誰でも不安である。しかし、イエスは不安だらけの弟子たちを、そしてユダを、食事に招き入れている。
この食事の席にユダがいないとすれば、私たちは不安だらけで生きていなければいけない。ユダが追い出されていたとすれば、そこは落伍者が存在することになる。私がユダになるかもしれない、と言う不安をだれも捨てられはしない。私たちこそユダなのかもしれない。しかし、ユダもそこにいたのだ。12弟子はひとりも欠けていない。全員をイエスは引っ張っていったのだ。
生まれなかった方が、そのもののために良かった、とは私たちにも当てはまることばなのかもしれない。社会のために良かったという以前に、まわりのために良かった、と言う以前に、まわりの迷惑にならなくてすんだ、と言う以前に、自分自身のために良かったのかもしれない。そして多分、私たちはそのような人間なのだろう、と思う。
聖書は私たちを罪人という。罪人とは、そのような人間のことなのではないか。生まれなかった方が、本人のために良かったような人のことなのだろう。多分罪人とは相当に重いことばだ。私は罪人ですなんてことばは、軽々しく言えるようなことばではないのだ。
イエスはそんな罪人を招いて食事をした。そんな罪人を引きずって、背負って十字架へと向かっていったのだ。ユダをも一緒に背負って十字架につかれたのだ。
まさかこの私のために、と思う、そんな私のためにイエスは十字架につき死んだのだ。この罪人を、生まれなかった方が良かった者を、神はなお愛しているのだ。何ということか、まさか、と思う。しかし神はそのまさかと言うことをしている。