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礼拝メッセージより
「できるかぎり」 2008年6月15日
聖書:マルコによる福音書 14章3-9節
勿体ない?
イエスがライ病の人シモンの家で食卓に着いていたときの話。
一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
ナルドというのは、ヒマラヤ山脈原産のナルドという植物の根から取った、非常に高価な芳ばしい香料、だそうだ。その後の話からするとその香油は300デナリオン以上に売れるものだったらしい。1デナリオンが一日の賃金だから、1日の給料を1万円としても300万円もするようなものだった。その香油をこの人はイエスの頭にかけてしまった。壺を壊して。壊すということは全部使ってしまうということだろう。壊してまでかけなくても、少しだけにしとけば残りを持って帰ることもできたのに。
300万円あればなにをするだろうか、と浅ましい考えをする。そんな高価なものを頭からぶちまけてしまって、誰だって怒りたくもなる。
「何でそんなもったいないことをするのか。そんな無駄使いをするんなら俺にくれ。」と言いたくなってしまう。
記念
イエスは「するままにさせておきなさい」と言われる。そういえば、人々がイエスにさわってもらうために幼子を連れてきたときにも「そのままにしておけ」と言っていた。
さらにイエスは「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」とまで言われる。このことは良いことだと言うのだ。周りのものが厳しくしかっていることに対して、いかにも無駄使いと思えるようなことに対して、イエスはこれは良いことだと言われる。さらに、世界中どこでも、福音がのべ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう、とまで。記念ということばは、主の晩餐を、わたしの記念として行ないなさい、と言われたときの言葉で、他では見あたらないらしい。つまりイエスの死を記念するのと同様にこのことを記念すると言うことのようだ。
無駄遣い?
小さい頃から無駄遣いをしてはいけないと言い続けられてきた。勿体ない、といつもいわれてきた。確かにそれは大事なことだと思う。勿体ないことをしているということが今の世の中多すぎるんではないかと思う。無駄なことが多すぎる。しかし、なにが無駄なのか、なにが無駄でないのかを判断するのは難しい。無駄遣いをしてはいけない、ということで結局はお金を使うこと全てがよくないこと、というようなイメージがある。何も買わないことが一番無駄遣いがないことにはなる。けれども現実には使うべきところには使わないといけない。大事なところには使わなければいけない。
大学の時、ある人がこんなことを言っていた。大事な人に会うために遅れそうになったとき、タクシーを使うことは全然勿体ないとは思わない、ということだった。とにかくお金を使うことは勿体ないことだと思っていた私はびっくりした。そんなもんだろうか、と思った。
そこにいた人たちも、すぐにお金のことに話がいっている。やはり彼らも金が無駄かどうかの基準だったのだろう。でもやっぱり300万円の香油を一気に使い切ってしまうなんて人のことの聞くとワァーと思ってしまう。ちょっと待て、何もそこまでしなくても、と思うに違いない、と思う。
絶望
大事に大事にとっていた高価な香油だったのだろう。いざというときにはその香油を処分して金に換えるためにとっていたのかもしれない。しかしその香油を全部使ってしまった。壺を壊してイエスにかけた。ということは全部をかけた、残しておくつもりはなかった、ということだ。
彼女はもうそんなものはどうでも良くなったのだ。この世のことはどうでも良くなっていたのだ。この世には絶望していたのかも。だからこの世で生きるためにとっておいた香油も使ってしまったのだ。この世に絶望して、ただイエスにすがりついた。イエスに対する並々ならぬ思いがあったから、こんなことをしたというのは事実だろう。しかしきっとそれだけではない。絶望が彼女の中にあったに違いない、と思える。高価なものをもささげるすばらしい信仰心が彼女のあったからこうした、というよりも、彼女にとっては、それがいくらなのかなどということは頭の中にはなかったに違いない。ただイエスの元へ倒れ込んでいった女の姿が、そこで人生を終えてしまったかのような姿がそこにあるように思える。
しかし、その彼女をイエスは受け止め、賞賛している。イエスによって彼女は逆にこの世を生きる力を与えられたことだろう。
できるかぎり
しかしこの行為を無駄遣いだ、と言った人がいた。300万円以上に売って貧しい人に施せたのに、と。理屈としては確かにその通りだ。
イエスはそれに対して、貧しい人々はいつもあなたたがと一緒にいるから、したいときによいことをしてやれる。なんて答えている。
実はがみがみ言う人ほど施しはしてないのかもしれない、と思う。300万円あれば施しが出来る、という人ほど、それがないからできない、ということが多いような気がする。
これだけあれば、あれだけあれば、なんてことが多い。もう少し余裕ができれば、そういいながら結局何もしないことが多い。イエスは貧しい人々はいつもあなたと共にいる、という。したいときにはいつでも出来る、という。出来るのにしてないじゃないか、なのに、この女の人に対しては文句ばかりいうのか、ということを言っているのかもしれない。
この人はできるかぎりのことをした、とイエスは言う。
私たちもできるかぎりのことをしている人に対してとやかく文句を言うことが多いのかもしれない。一所懸命にしていることに対して、こうやった方がいい、こうすべきだ、そんなことして何になる、それまでしなくても、、、なんてことを言っていることが多いのかもしれない。
貧しい人に施した方がいい、なんて自分が施したこともないくせに偉そうなことを言うことが多い。人のことをとやかく言うよりも自分がどうしているのか、それとも何もしていないのか、そのことを考えた方がいいように思う。
実はできるかぎりのことをしていないからできるかぎりのことをしている人のことが分からないのかもしれない。できるかぎりのことをしていないから、周りの人のことが気になって仕方ないというかもしれない。
そして女の人の思い、絶望、そういうことをまるで考えないで、ただ無駄遣いだ、もったいない、その金があれば、なんてことばかり言っているのではないか。
イエスは、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた、世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう、と言った。
この女の人はこれを聞いてびっくりしただろうと思う。イエスに自分のできること、自分がしてあげたいと思っていたことをしたというだけで、葬りの準備のつもりでしたわけではない、誉めてもらうためにしたわけでもない、と思っていたのではないか。彼女自身、勿体ない、貧しい人に施せ、とイエスからも言われるかも知れないと思っていたかもしれない。しかしイエスは、彼女の行為を評価した。もそうやって自分のしていることを認められたことで、この人はその後を生きる力を与えられたのではないかと思う。その先の人生を全く考えられなかった彼女に、新しい命を与えたのではないかと思う。
私たちがしようとする、できるかぎりのことをイエスはきっと受け止めてくれる。それは周りから非難されるようなことかもしれない。けれどきっとイエスは受け止めてくれる。
私たちの、できるかぎりとは何なのだろうか。