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礼拝メッセージより
「祈りの家」 2008年6月8日
聖書:マルコによる福音書 11章15-19節
ちゃぶ台返し
詳しくは覚えていないけれど、巨人の星という漫画の中で、親父である星一徹は腹を立てると、ご飯が載ったままのちゃぶ台をひっくり返していた。そういうのを昔の漫画の特集みたいなテレビでよくやっていた。
イエスはエルサレムに着くと神殿の境内に入りそこで商売をしている者の商売道具、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返した。そして境内を通って者を運ぶことも許さなかった。
神殿の境内に「異邦人の庭」というのが神殿から離れたところにあり、そこに許可を受けた商人、動物商、両替屋などがいたそうだ。異邦人の庭の大きさは450m×300m。近所の小学校や中学校が10個くらい入る大きさだろうか。 また、小学校が10個くらいも入るような広い所なので、回り道が大変なので道代わりに使うような人も大勢いたのだろう。
回り道が大変なので道代わりに使うような人も大勢いたのだろう。商人はそこでぶどう酒、犠牲のための動物など祭儀に必要なものを売っていた。両替人は外国の貨幣を神殿奉納に指定されていた古代ヘブライのシケルと交換した。外国に移住していた人たちにはヘブライのお金はあまり持っていないだろうし、それも昔のお金となるとそれを用意するのは大変だっただろうから、そういう両替人がいることで助かっていたのかもしれない。また犠牲のための動物を遠くから持ってくるのも大変で、神殿のすぐそばで買うことができれば面倒もなくて都合がよかったのだろう。そして貧しい庶民が犠牲のために買っていたのが鳩だったそうだ。
商人はそれでもうけていたわけだが、それに神殿の祭司もからんでいたらしい。こういうときはこうしなければいけません、犠牲をささげるときには傷のないものでないといけません、なんてことを言いながら、その動物はここで売っていますからここで買えばいいです、ここの店のならば大丈夫です、なんてやっていたんじゃないかと思う。そのお墨付きをもらうために、商人がどんなことをしたのか、は詳しくは分からないが、どこの国でもそういう時には接待とか何とか言う話になってくる。今の日本でも役人がいろいろいい思いをしているということを聞くが、昔からどうやらそうだったらしい。
怒号
イエスは神殿で怒り狂ったような振る舞いを見せているが、商人にだけ怒っているのではなくて、そのことによって一部の特権を持ったものだけがいい思いをして、一般庶民を搾取している、そういうことに対しても怒ったのではないか。しかもそれを神殿の境内で行っていることに怒ったのだろう。
そこでイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と書いてあるじゃないかという。これは旧約聖書のイザヤ書の56:7に書いてある。祈りの家をおまえらは強盗の巣にしている、とたぶんすごい剣幕でいったのではないか。
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いてイエスをどう殺そうかと相談したと書いてある。イエスの言葉が図星だったということだろう。痛いところを突かれて頭に来たといったことかもしれない。ここまで言われれば仕返しをしたいと思うことも分からなくもないか。
どこの馬の骨とも知れない若造が、自分たちの利権に対して文句を言ってきたわけだ。このまま何事もなければずっと食うに困ることはない、或いはこのまま良い暮らしが出来る、そんな組織を作ってきたわけだ。余計なことを言われたらそんな自分たちの暮らしが脅かされるわけだ。そんな奴を放っておけるわけがない、ということだったのだろう。
祈りの家
イエスは神殿は祈りの家だ、と言った。祈りとは神に願い事をすることでもあるのだろうが、それだけではなく神に聴くことも祈りだろう。つまり神に出会うこと、それが祈りなんだと思う。キルケゴールが言うように、神を変えることではなく、祈る者が変えられることだ。祈りとは、あれとこれとそれをどうかしてください、と何もしてくれない神の気持ちを変えて貰うことではなく、祈る者の気持ちや行動が変えられていく、それこそが祈りなんだろう。神と出会うこと、神と向かい合うことからそういう変化が起こってくるのだろう。
しかし実際に神殿にいたのは、神との出会いを求めてやってくる人たちを相手に金儲けをすることばかりを考えている人たち、回り道が面倒なので近道をする人たちだった。あるいは、ただ決められたささげものを決められたようにささげるだけという人もいたのかもしれない。
そんな、神との出会いを求めて来る者たちを食い物にすること、あるいは邪魔をすること、それに対してイエスは怒っている。
翻って今の教会はどうなのだろうか。いろんな人が教会にやってくる。教会に来る人は勇気を振り絞ってやっとの思いでやってくる人が殆どだ。何かを求めて、助けを求めて、救いを求めてやってくる。そんな人たちのために私たちは何をしているだろうか。そんな人たちのために何か出来ているだろうか。それともまわりで邪魔をしているばかりなのだろうか。
そもそも私たち自身が神と出会っているだろうか。神との出会いを求めているのだろうか。礼拝に来て神と出会っているだろうか。休んじゃいけないから形だけ出席したけど、早く終わらないかな、終わったら何をしようかな、何てことばかり考えているなんてことが何度もあった。これって神と出会うためじゃないよなと思う。
しかしイエスは何でそんなに怒ったのだろうか。神殿から商売人がいなくなったらそれで良かったのだろうか。邪魔者がいなくなったらそれで良かったのだろうか。
イエスはきっと、祈ろうよ、と言いたかったんじゃないかと思う。献げ物が良い物かどうか、傷があったかなかったかなんてことを心配するんじゃなくて、兎に角祈ろうよ、祈るための家なんだから祈ろうよ、折角祈る場所なんだから、祈らないなんて、祈る心を持たないなんて勿体ないよ、と言いたかったんじゃないかと思う。