前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「子ろばに乗って」 2008年6月1日
聖書:マルコによる福音書 11章1-11節
子ろば
ベツレヘムの家畜小屋の中でイエスは生まれた。そこはたぶん馬小屋ではなく、そこには馬はいなかったであろう。たぶん牛やろばがいたと思われる。馬は戦いに使うこともできる動物。そんなことからも馬は権力者が使う動物で権力者のもの、権力者のところにいる動物だったらしい。そして庶民が使っていた動物はろばだったようだ。
旧約聖書の規定では、すべての家畜の初子、つまり最初の子は神へのささげ物としなければならない、とことになっていた。しかし、ろばの子は例外だった。ろばの子はささげなくてもよかった。(「ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。」 出エジプト記13:13 ) ろばというのは大した動物ではなかったということか。神にささげるものとしては役に立たないものだということだったのかもしれない。
エルサレム入城
イエスはそんなろばに乗ってエルサレムに入っていった。普通新しく権力者になるものは馬に乗って都へ入っていった。戦争に勝って、相手を征服したときには、馬に乗って相手の都へ入っていった。馬は権力の象徴でもあった。また軍事力でもあった。旧約聖書の箴言21:31に「戦いの日のために馬が備えられるが、救いは主による」という言葉がある。戦うためには、普通人間は馬の準備をする。支配者はこんなに強いんだということ、またこんなに軍事力があるんだということを見せつけるためにも馬でやってくる。しかしイエスが準備したものはろばだった。
「まだ、誰も乗ったことのない子ろば」がイエスのためにとっておかれた乗り物だった。ろばは戦いのためにはなんの役にも立たない。ろばは人間が生きていくために役に立つ動物。日常の生活のために役に立つ動物だった。かっこいい仕事ではなく、いわば雑用ばかりさせられるような動物だったようだ。その雑用係の動物に乗ってイエスはエルサレムへと入っていった。
『誰かが、「なぜ、そんなことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい。』と言う言葉がある。イエスを乗せたからといって、それで突然、特別なろばになるわけではない。何かの箔がつくわけでもない。またいつもの雑用が待っている。そんなろばをイエスは用いられた。
奉仕
子ろばはイエスのために働いた。けれどもそれは特別大変なことをしたわけではない。他の誰にもできないことをしたわけではない。人を乗せて、きっとゆっくりゆっくり歩いたのだろう、それは他のろばでもできることだったに違いない。けれども、誰でもできることを主は用いられた。
教会で奉仕しましょう、と言ってもなかなかしない。私は何もできません、奉仕なんてとてもとても、と言われる。信仰深い人は、私には奉仕する賜物がありません、なんて言う。
奉仕とは、主がお入り用なのです、と言われることに応えていくことなんだろう。子ろばがしたことは他のどのろばでも出来るような、人を乗せて歩くということだった。しかしそうすることが「主がお入り用なのです」といわれることなのだ。
主がお入り用である事柄とは、私たちが雑用と思えるような小さな当たり前の事柄なのかもしれない。その気になれば誰にでもできることなのかもしれない。しかしそれを主は必要である、と言われるのだ。
だから「わたしにはとてもできない」と思うような大変なことだけが主のご用ではないのだ。ほとんどの場合、はこんなことは誰にだってできるというようなことこそが主のご用なのかもしれない。私にもできる、ということを主が用いられるからだ。
ホサナ
群衆は上着を道にしき、葉のついた枝を敷いてイエスの道を飾った。そして「ホサナ」と言った。これはもともとは「お助け下さい」、「今、救ってください」と言うような意味があったそうだが、その当時には王を迎える言葉としての決まり文句のようになっていたらしい。
群衆の叫びは、イスラエルの王の到来を待ち望む叫び、かつての強国、ダビデの国をもう一度、という意味を込めての叫びだったようだ。
イエスは彼らの心とはかけ離れたところを小さなろばに乗って進んでいった。自分のことを理解していない者たちの中を進んで行かれた。人々が自分に対して栄光の王を期待している、人々はとんでもない誤解をしている、見当違いの期待をしている、その中をイエスは十字架へ向かって進んでいたのだ。そんな何も分かっていない人間の真ん中を通って行かれる。
イエスの気持ちなど何も分かっていない私たちの間を通って行かれる。私たちの間を通って十字架へと進んで行かれるのだ。
イエスがエルサレムに入っていったとき、群衆の声を聞いたとき、どんな気持ちだったのだろう。自分に対して見当違いの期待を抱いている、その声を聞きながらイエスはどう思ったのだろうか。俺はそんな王じゃない、お前達は間違っている、と言いたくなかったのだろうか。あるいはこんな訳のわからん奴らのことはもう知らん、面倒見切れんと思って違う道を行こうとは思わなかったのだろうか。
しかしイエスはそんな無理解な人の中を進んでいく。お前達は間違ってると言うわけではなかった。しかし見捨てるわけでもない。その彼らの真ん中にいて、黙々と自分の道を進んでいく。イエスは罪深い、間違いだらけの、無理解の人間を巻き込んで、その真ん中にいて、神の業を行っている。
人の間違いも無理解も自分勝手も、みんな受け止めていたのだろう。人の罪も失敗も全部受け止めているのだろう。そういう仕方でイエスは私たちと関わってくれているようだ。
遠い高いところから、私たちの間違いを指摘し裁くのではなく、私たちのすぐそばにいて、隣にいて、自分の間違いを責めて落ち込んでいる私たちを抱きかかえている、そんな仕方で私たちと関わってくれているのだろう。