前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「あなたの信仰」 2008年5月25日
聖書:マルコによる福音書 10章46-52節
願い
寝ている時に家が火事になって、大事な物を持ち出さないといけないと思うのだけど、あわてていて枕だけを持って家を飛び出した、なんていう話しを聞いた事がある。それでも預金通帳を探している間に焼け死ぬよりは、命を持ち出しているからいいという気もしないでもないけれど。
もし宝くじで6億円当たったら何を買うだろうか、という話を時々することがある。我が家ではしばし考えた後、大福をいっぱい食べて、北海道に旅行に行って、ぐらいで終わってしまった。5億9900万円位余ってもそれ以上思い浮かばなかった。
欲しいと思っている物はいっぱいある。けれど自分にとって今一番必要なのは何なのか、今一番にどうかしてしてほしいという願いはなんなのか、自分に必要な大事な物は何か、とよく考えるとあまりよく分かってないような気がする。
こうしてほしい、という切なる願いを誰かにぶつけることもない、だからそれを神に祈ることもなくなってしまっている。いっぱい祈っているけれど、本当に大事な物は求めていない、なんてことになっているような気もする。
叫び
今日の聖書の箇所に、神に願いをぶつけて人の話が出てくる。
エリコ−エルサレムの東北東27キロ位。もうすぐエルサレムというところ。11章ではエルサレムに入っていく。そしてそこで十字架につけられる。十字架を目前にした時での出来事である。
ここに盲人の物乞いであるバルテマイという人がいた。テマイの子だと書いてあるように、バルとは子のこと。
このバルテマイはイエスと聞いて叫びだした。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。ダビデの子というのはつまりキリストのことを言っているらしい。つまりイエスをキリストだと思っている、救い主だと告白している、ということになる。
彼はイエスの噂をかねがね聞いていたのだろう。彼はこの機会を逃したらもうイエスに会えないと思ったのだろう。今日しかない、今しかない、イエスに会うには今この時しかない、と思ったに違いない。そこで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
群衆はバルテマイを黙らせようとした。群衆にとってこのバルテマイの叫びは失礼な、非常識なふるまいだったのだろう。お前みたいな失礼な奴は黙っていなさい、或いはお前みたいな物乞いは静かに控えていなさい、ということだったのだろう。にこやかにイエスに付いてきていた群衆にとっては邪魔な者としか思わなかったのだろう。
しかしバルテマイは何度も叫び続けた。そしてイエスは彼の声を耳にして、彼を呼んだ。イエスが自分のことを呼んでいると知ったバルテマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た、と書いている。
夜になればその上着を着て寝て、昼間は施し物をもらうために上着を地面に広げるような人がいたそうだ。病気のもの、障害を持つものが罪人と考えられていた当時、彼は人間としては認められていない存在だったようだ。少なくとも一人前とは認められていなかった。憐れみを受けることでしか生きていけない存在だったのだろう。その彼にとって、上着はほとんど唯一の持ち物だったのだろうと思う。その上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエスのところにきた。彼の喜びはそれほどに大きかった。人生で最も大きな喜びだったのかもしれない。
何を
彼を呼び寄せたイエスは「何をしてほしいのか」と問う。
バルテマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答える。
バルテマイは目が見えるようになることをイエスに求めている。盲人に向かって何をしてほしいのかと聞くならば、当然見えるようになることだと答える、ような気もするが果たしてそうなのだろうか。
イエスはそのあと、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言った。バルテマイはイエスに向かって何度も何度も叫び続けた、「憐れんでくれ、憐れんでくれ」と叫び続けた。自分は憐れみを受けなければいけない人間なんだ、憐れみが必要な人間なんだと自分で認めている言葉だ。そんな惨めな人間だということを自分で認めている、自分ではどうしようもない人間なんだということを自分で認めている、だから「憐れんでください」という言葉になったのだろう。人間にはプライドがあって、自分で自分のことをだめだとか、惨めだとか、口では言いながら実は心の底ではあまりそう思ってもないことが多い、と思う。本当に自分が駄目だと思っている人は自分からはあまり言わないように思う。「わたしはだめだから」という人ほど「わたしはだめではない、だめではいけない」と思っているらしい。「あなたはだめではない」とか「あなたはすばらしい」とか言ってもらいたいために、「わたしはだめなのよ」と言うこともあるそうだ。
それはそうとしてその自分のプライドを脱ぎ捨てるということが人にはなかなか出来ない。そして自分に必要な物がなんなのかということをいうことを口に出せないことが案外多い。自分の弱さを隠そうとかごまかそうとかする。自分でも気づかない振りをしたり強がったりする。だから自分にとって一番必要な物がなんなのかということを言うことも出来ない。そしていつのまにか、自分に一番何が必要なのかということも分からなくなってしまうのではないか。
しかしバルテマイは自分にとって必要な物が何であるか、自分に何が足りないのか、何が欠けているのか、そのことをよく分かっていたし、それを口にすることも出来た。彼を人間らしく生きさせない最大の問題は目が見えないということだった。心の真ん中にある願いを、バルテマイはイエスにぶつけた。「目が見えるようになりたいです」ということは意外と言えない言葉だったのではないかと思う。
心の奥底の願いをバルテマイはイエスにぶつけた。さて、わたしたちはそんな思いを神にぶつけているだろうか。
神に向かって、イエスに向かってどこまで心を開いているだろうか。神に何を願っているか。偉くなりたいとか、金持ちになりたいとか、家内安全であるようにとか、病気を治して欲しいとか、いろいろある。では一体その願いが自分にとってどれほど重要なことなんだろうか。もちろんどれも大事なことには違いないが、自分の人生にとってなくてはならない重大なことを神に願っているだろうか。
つまりたとえば通りすがりのおじさんには大事なことはお願いには行かない、本当に大事なことならばそれなりの人にお願いに行く。子どもが道に迷って泣くときには自分の親が来てくれることを待っている。つまり神に何を願うかということは、自分にとって神がどれほどの物なのかということにかかってくるということだ。自分の人生にとって神がどれほどのものなのか。自分にとって神がどこにいるのか、真ん中にいるのか、それとも飾りなのか。
自分の人生があって、中心に自分がいて、人生にとってはいろいろ大事なものがある。大事なものがいろいろある中のひとつに神があるのか、その人生をうまくやっていくための手段のひとつとして神があるのか。あってもなくてもいいけど、どっちかというとあったほうがいいから神があるのか、極端に言えばアクセサリーのひとつのようなものなのか。
それとも神は自分の人生のど真ん中、基盤にいるのか、つまり神の上に自分の人生が立てられているといったようなものなのか。神がいるから自分がいるといったものなのか。神なしには自分はないのか、それともなくてもいいがあった方がいいものなのか。
信仰
イエスは、あなたの信仰があなたを救った、と言った。盲人が見えるようになりたいと願う、そのことをイエスは信仰と言われている。
彼にとってはもうすでにイエスが、神が自分の中心にいる、自分の基礎になっている、もう彼は神の上に生きている、だからこれを信仰と言うにふさわしいのではないか。だからイエスはこれを信仰と言ったのではないか。彼がイエスに対してキリストだと言ったからとか、何度も叫び続けたからとか飛び上がってやってきたとか言うことよりも、自分の心の一番深いところ、誰にも見せられないような心の深み、その深みのさらに下からの支えが必要であること、そんな支えを求めていること、それをイエスは、信仰だ、あなたの信仰だと言ったのではないか。神との関係を持たねばならない、神に憐れまれなければ人として生きていけない、そんな思いをイエスは信仰と言ったのではないか。つまりバルテマイが何が優れた者になったからではなく、優れた思いを持ったからでもなく、そういうこととは全く正反対の、神がいなければ、神の憐れみがなければ生きていけない、というように、自分には全く何もない、自分はどうしようもない、という思い、それをイエスは信仰だっと言ったのだろう。
バルテマイはすぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。十字架へ向かうイエスに従った。バルテマイの人生に変化が起こった。イエスとの出会いはそんな出会いでもあるのだ。そしてそれはバルテマイにとって最も必要な出会いだったということだろう。
イエスと出会うことは、そのことで私たちが裕福になりなんでも思い通りになるような、そんな出会いではないかもしれない。私たちが偉くなり力強くなるような出会いではないかもしれない。イエスと出会っても私たちはきっと弱いままだろう。しかし弱いままだが私たちのありのままを見つめてくれる、心の一番奥から出てくる叫びを聞いてくれる、心の一番深いところにも一緒にいてくれる、そんな安心と喜びを得るという出会いだろう。
私たちは神に何を求めているだろうか。何を祈っているのだろうか。
私を憐れんでくれ、私を助けてくれ、目が見えるようになりたいのです、私たちも心の深みにある思いを、願いをイエスに叫び続けたい。