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礼拝メッセージより
「すばらしいこと」 2008年5月18日
聖書:マルコによる福音書 9章2-13節
変貌
高い山。イエスはよく祈るために高い山に登った。この日はペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて。そこでイエスの姿が変わった。衣が真っ白く輝いた。
そこにエリヤとモーセが現れ、イエスと語りあった。エリヤは旧約聖書列王紀下2 :11によれば死ぬことなく天にあげられた人。
モーセはユダヤ人をエジプトからカナン、今のイスラエルのある所まで導いて脱出させた人。この人は旧約聖書の出エジプト記によると神からさずかった十戒を持って山から降りてきた時に神の栄光を受けて顔が輝いた。そのために顔に覆いをかけた人。(出34:30)
エリヤとモーセが出てきたので弟子たちは驚き、恐れた。ペテロは思わぬことを口走る。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。すばらしいことです、とは言っているが気が動転してのことばだったらしい。
その後、雲が現れ雲の中から「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声がした、ことが書かれている。 1:11でも天から声がして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と言われている。
つまり神がイエスを紹介している。イエスは神の子である、という証言。「これに聞け」聞くことが大事なのだ。ローマの信徒への手紙の10:17では「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。
天からの声はこれに聞け、つまりイエスに聞け、ということだった。そしてローマの手紙にも同じくキリストに聞け、と書かれている。
そののち弟子たちは辺りを見回したが、そこにはイエスしかいなかった。そして山から降りてくる途中、またもや、このことを復活までは誰にも言うな、と命令する。
仮小屋
弟子たちもイエスに対する勝手な思いを持っていた。自分たちの先生だから有名になってほしい、みんなから一目置かれるような人になってほしいと思っていたのだろう。この世の権力者になること、偉大になること、自分たちの敵をやっつけることを願っていたのかもしれない。輝く姿のイエスを見て、自分たちの想像するよりも、もっともっとすばらしい神々しい方であることにびっくりしたのだろう。そしてそのままの姿でいてほしい、ずっとその高貴な姿のままでいてほしい、そしてそんな願いから仮小屋を建てましょう、という言葉になったのではないか。
仮小屋の中にずっといてほしい、ここにくればいつでもその姿に会う事が出来るように、ここにいてほしいと思ったのだろうか。
ところがイエスは、このことを誰にも話すな、という。復活までは。復活までは、ということはその前に死ぬということ、その前に十字架があるということだ。
十字架の姿は全然かっこいいものではなかった。光輝く顔をしてはいなかった。そしてイエスの姿の中には、十字架の上で苦しむ姿もあった、そしてそれもイエスの本当の姿だった。決して輝く姿だけがイエスの姿ではない。或いは十字架の姿こそがイエスの本当の姿ということなのかもしれない。だからイエスはこの山でのことを話すなと言ったのではないか。
姿
弟子たちにとってはもう一つ腑に落ちないことがらがある。11節「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」。
旧約聖書のマラキ書 3:23「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあななたちに遣わす」とある。メシア、キリストの前にエリヤが来るはずだ、と誰もが知っていた。そのエリヤはどうなったのか、というのだ。山の上で見たエリヤこそが約束されていたエリヤではないのか、という意味だったのか。そしてエリヤが来れば世界の秩序が回復するはずではないのか、ということだったのかもしれない。でもなにもかわっていないが、ということか。
しかしイエスはエリヤはすでに来た、と言う。マタイによる福音書の方を見ると、弟子たちはそれはバプテスマのヨハネだと分かったと書いてある。キリストが来る前に来ると約束されているエリヤはもうすでに来た、と言う。でも一般大衆はそうは思っていなかった。バプテスマのヨハネをエリヤだとは思っていない、そしてイエスをキリストだとも思っていない。エリヤもまだ来ていないのだから、イエスがキリストであるはずがない、という理屈にもなる。そしてバプテスマのヨハネは結局殺されてしまい、そしてイエスも十字架で殺されてしまった。苦しんで死ななければならなかった。
人々が期待していたキリストの姿とは全く違っていた。〔ところが旧約聖書の中にはイエスの姿にぴったりあてはまる所がある。イザヤ書の53章には苦難の主と言われることが書いてある。もちろん直接これがキリストの姿だ、とは書いていないが、イエスの姿に見事に一致する。イエスの姿を予言していたと言うべきなのかもしれない。〕
人は神に何を望むのか。どんな姿を望むのか。栄光に輝くりっぱな姿を望むだろう、普通なら。しかし、神はそんな姿では現れなかった。神は力を持って上から、つまり人間とは違う世界から人間を支配しようとはしていない、ということだろう。
イエスの十字架の姿は仮の姿ではなかった。自分の本当の姿を隠した姿ではなかった。だから十字架で死ぬまで人間のままだった。神なのに人間のままだった。苦しんで絶叫してまでそうだった。そうしてまであくまでも人間の側にいた。人間であることにこだわった、つまりそうまでして私たちの所にいようとした。
なにかあれば神の側にいけばよかったのに。いざとなったら私は神だ、というところを見せればよかったのに、と思うがそれを敢えてしなかった。十字架につけられる前に、あるいは十字架から降りてきて、自分の力を見せれば善かったのにと思う。しかしイエスは人間離れした力を見せることによって、人間の側から離れることをしなかったということなんだろう。水戸黄門は最後にはかつての副将軍にもどって庶民の側にはいなくなってしまう。でもイエスは最後の最後まで人間のまま、人間の側にいた。
すばらしい
ペテロは輝くイエスを見たときいすばらしいことだ、と言った。でも本当はイエスが人間の側にいてくれていることこそ、すばらしいこと、そしてこのイエスに聞くことこそ、すばらしいことなのだ。きっと。
ローマの信徒への手紙10:17「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。
聞くことが信仰の始まり。イエスに聞くことからすでに信仰は始まっている。聞く事がすでにすばらしいことなのだ。
私たちはイエスに聞く事から、つくりかえられ、奉仕し愛する者とされていくのだ。