前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「ため息」 2008年5月11日
聖書:マルコによる福音書 7章31-37節
連れて来た
耳が聞こえず、口の聞けない人・・・ろうあ者。
聾唖者・・・コミュニケーションの障害者。孤独、孤立。情報が入ってこない障害。つまりうわさも耳に入ってこない。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」という言葉がある。ほとんど無意識のうちにいろいろなことを聞いて、自然と覚えていく。耳の聞こえる人にとってはそれがごく当たり前で、そうやっていろんなことを知ってきた。でも聾唖者にとってはそれができない。自然と耳に入ってくる、ということがない。人間は耳にすることから言葉を覚える事が多いと思うが、彼らはそうではない。
ある牧師が言っていた。教会に来ている聞こえない人のために説教の原稿を準備してわたせばいい、と思ったがそうではなかった。彼らは言葉の意味がよくわからない。極端に言えば日本語がよくわからない。手話は分かっても日本語は分からない、ということがある。彼らは日本語を意識して手話を話さない。
また日本語の単語をただ単純に手話に直しても通じないことがある。日本語の単語を外国語にそのまま訳しても通じないのと似ている。
聖書のこの人も自分からイエスのところに来たのではない。イエスのいろんな噂話は耳には入っていなかった。だから人々が「連れて来」たのだ。この人がイエスのことを知っていたのかどうかは分からない。まわりの者が連れてきて、まわりの者がこの人に手を置いてやっていただきたいとイエスに願い出た。なんのために回りの人はそんなことをしたのか?善意でか?それともひやかしか、イエスがどんな風にするのか、耳が聞こえるようにするのかしないのかを試してみたかったのかもしれない。
ため息
イエスはこの人だけを群集の中から連れ出した。イエスは自分の業を見世物にすることを嫌ったのかもしれない。この耳の聞こえない人と1対1で正面から向き合いたかった、そのために二人きりになりたかったということだろうか。
イエスはこの人の両方の耳に指を差し入れて、それから唾をつけてその舌に触れられた。まるで魔術師か呪術師のような仕草である。この間イエスは無言のままである。そして天を仰いで深く息をついた。口語訳ではため息をついたと訳している。この深い息、ため息はなんなのか。どうしてため息をつく必要があるのか。
イエスにはこの人の耳と口を開く力があった。そして実際に開いた。でもその、開け、という前に大きな息をため息をついた。
苦しみにあるとき、望みがなくなったとき、未来が見えないとき、大きな問題を抱えてどうすればいいのか分からないとき、そんな時、人はため息をつく。
イエスはこの耳の聞こえない人の、苦しみや悲しみを思い、感じ取り、自分自身のことのようにまで思い、そしてため息をついたのかもしれない。
開け
聾唖者がコミュニケーションの障害であるように、私たちと神とのコミュニケーションがうまくいっていなければ、「開け」と言ってもらわねばならない。
イエスは現代ではこんな奇跡を行わないのか。確かに、耳の聞こえない人が教会に来て聞こえるようになった、という話はあまり聞かない。神は奇跡を行わなくなったのか。イエスは十字架に近づくにつれて奇跡をあまり行わなくなったようでもある。十字架上では奇跡を起こしはしなかった。奇跡を起こして降りてはこなかった。だんだんと奇跡を起こさなくなっていったようにも見える。なぜか?最初はあなたの信仰があなたを救った、と言っていろいろと奇跡を起こしていたようなのに。
イエスは進んで奇跡を起こしてはいないのだろうか。少なくとも奇跡を人に見せるためにしてはいないようだ。少なくとも自分のことが評判になって大勢見に来たから喜んでする、というわけではなさそうだ。却って奇跡を起こす者という見方をされることを嫌っている風でもある。ただ目の前につれた来られた人を見るに見かねてした、そんなことが多かったようにも見える。
このため息、深い息はどういう意味だったのだろう。みんなに連れ回されてイエスのもとに連れてこられたこの耳の聞こえない人の有り様を嘆いてのことのなのか。そもそも人々がこの人を連れてきたのはどうしてなのか。純粋に好意からなのか。この人のためを思ってか。それとも、奇跡を見てみたいから、イエスがどんな風に癒すのかを見てみたいから、連れてきたのか。
どちらにしろ、この耳の聞こえない人にとっては自分から主体的に生きるすべはこの時代にはなかったということになる。いつも誰かから何かをしてもらう立場にしか立てないこの人のことを思い、またそういう風にしかこの人を見ていない群衆、社会を嘆いてのため息だったのかもしれない。
嘆き
イエスは今も嘆いているのかもしれない。人間を人間として大事にしない社会を何時もイエスは嘆いていた。神の名において人を差別することに対しては断固として反対してきた。
イエスは今もため息をついているかもしれない。しかしこの人のいやしはこのため息から始まった。この世はため息をつくようなことばかりかも。そもそも私たちは自分自身にため息をつきたくなるし、現についている。私たちはそんなだらしない存在だ。しかし、そんなところでイエスは奇跡を起こしてきた。ため息をつくしかない現状に接してイエスは奇跡を起こしてきた。
人々が、こいつに奇跡を起こせるのかと興味本位な目で見つめるようなところで癒しを行ってきた。安息日の律法を破っても人を癒すのか、と挑発するような時にも癒してきた。そんな周りの群衆のさまざまな思いで見つめる中で、イエスは病気の者、苦しんでいる者、疎外されている者を見つめている。そして奇跡を行ってきているようだ。そんな時に奇跡を起こしたらやり玉にあげられると思うような時でも、そんな時にいやしたら命を狙われると思うような時でも、イエスはそんなことよりもただ目の前の苦しむ者を見つめている。その苦しみを見つめて、苦しみから解放するために奇跡を行っているようだ。
導き
イエスのいやしのわざは人々が連れてきた人と出会うということから始まった。誰かの信仰の故にこれを行ったとは書かれていない。信仰などというものとはまるで関係のないところでイエスは自分の業を行った。信仰の代償として、ご褒美として癒しが、奇跡があったわけではない。ただイエスと出会うところから奇跡が起こった。癒しがあった。
私たちの苦しみを前に、イエスはため息をついているだろうか。