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礼拝メッセージより
「おなかいっぱい」 2008年5月4日
聖書:マルコによる福音書 8章1-10節
空腹
聖書の中には食事に関することがいっぱい出てくる。イエス自身、大食漢とか大酒飲みとか言われていたらしい。
今日のところでは群衆に食べ物を与える。6 :30 にもある。その時は五千人。今度は四千人。よほど食べ物のことを気にしている。腹が減っては戦が出来ぬ、てやつか。祈っても何の腹の足しにもならん、その通り。イエスは自分で食事を用意する。
イエスはいろんな人と一緒に食事をした。どんな人とも。同じ釜の飯を食った。そのことはとても大切なことらしい。
空腹は大変なこと。だいたい人間の争いの根本は食い物の争いかもしれない、と思ったりする。もし人間が食べなくてもよければ、例えば植物のように太陽の光を浴びて栄養ができればそれほど戦争もなくなるかもしれない。そうでもないか。
「もう三日間も一緒に居るのに何も食べるものがない」だの「もし、彼らを空腹のまま帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうだろう」だの、イエスは人間の弱さをよく知っている。根性だけではどうにもならないのだ。でも三日食べないとどうなるのか想像もできない。一食抜いても大変なのに。
でまあ世の中根性出せだの、頑張れだのばかり。頑張りで、根性ですべてがうまくいくわけではない。根性、頑張りなんてそんなに長続きしないし、そんなことでやっとうまくいっていても、すぐに駄目になってしまう。根性が足りん、ということで、大事なことをなおざりにしてしまうことにもなりかねない。お前の根性がないからだ、という所では相手の気もちを知ろうとすることもない。頑張れ頑張れということは、お前がやることなんだから、俺は知らないよ、ということでもあるのではないか。ガンバリズムはちと危ないんじゃないか。日本人は頑張れも根性も好きだが、両方とも人に向かって言う言葉ではないように思う。ところが頑張れを人に言わないというのも大変。代わる言葉がなかなか見つからない。
イエスは「三日くらい食べなくても死にゃーせん。そんなことぐらいで弱音をはくやつはたるんどる」なんてことは言わなかった。腹が減ってる人の事を心配している。まず食べないことには始まらない。そこでどんなにいい話してもしょうがない。腹の足しにはならないんだから。
イエスは弟子たちに向かって群衆がかわいそうだ、と言う。弟子たちは「こんなとこでどうすればいいんだ」と言う。イエスはパンは何個あるか」と聞くと「7つある」。「7つしかない」4000人もおるのにどうするんだ、という感じ。
イエスはこの少しのパンを祝福して多くの人の腹を満たす。そして7つの籠のおまけつき。
奇跡
ここでいったい何が起こったのか。どんなことが起こったのか。祝福したら、祈ったらパンは増えるのか。だったら今でもどんどんパンを増やして欲しいと思う。世界中には飢えている人が8億人位いるとか、1分間に20人とか30人の人が飢えで亡くなっているという話しも聞く。ここにあるような奇跡を今も起こしてくれたら世界の飢餓はなくなるのかもしれない。でもどうもそんなことは起こりそうにもない。
弟子たちが持っていたのは7つのパンだった。それを差し出して配った。自分のものを差し出し、それを分けることでみんなが満腹したということなんだろう。他の持っている人たちも差し出してみんなで分けたのではないかという話しを聞いた事があるが、そういうことかもしれないと思う。
世界の飢えということも、結局は金持ちの国、力のある国少しの国が、多くの食料を奪ってしまうため、あるいはおいしい肉を食べるために、穀物を家畜に食べさせてしまって、それだけ人間の食べる分の食料が減っていって飢えが広がっている、ということもあるそうだ。
自分の分は確保しておく、自分の分は差し出さない、というところでは飢えが起きていくということに繋がっていく。
7つのパンをみんなで分けることから、結局はみんなが満腹になった。自分の持っているものを差し出すことで、みんなが幸せになっていくのだろう。
それは私たちが奉仕するということとも繋がっていく。奉仕するというとき、何となく特別なことをする、という印象があるように思う。ピアノ弾いたり歌を歌ったり、そんな他の人にはなかなかできないことをすることが立派な奉仕だというような面がある。そんな特別なことが出来る人を重宝がるようなところがある。教会の中でもそうだろう。
ここではパンを差し出した。特別なものではない。普段誰もが当たり前に持っているようなものだ。でもそれを差し出したことから、みんなが満腹になった。奉仕とは特別な能力を使って特別なことをすることばかりが大切なことではない。そういうこともあるだろうけれども、でも本当は誰もが持っているものを差し出す、日々差し出していく、それこそが大切なことなんだろうと思う。
教会に新しい人が来る時、そんな人に挨拶する、笑顔で迎える、そんな人のことを少し気にかけていく、それはとても大切な奉仕なんだろうと思う。いつ誰が来るか分からないから、受付に誰もいないようなことがないようにしておく事も大切なことだろうと思う。
あるいは教会の前のゴミをちょっと拾って捨てる、トイレットペーパーが入っているかチェックするとか、そんなちょっとした配慮をしていくこと、そんな風に自分の持っているもの、心遣いや配慮を差し出す事、そこからみんなが満腹すること、みんなが満ち足りる事に繋がっていくのだろう。
私たちは自分が何をもらえるか、何をしてもらえるかということにばかり関心が向きがちだ。そして自分のものが減らないように、なくならないように隠しておこうとしがちだ。
けれども幸せは差し出すところにあるのだろう。それは相手を幸せにするだけではなく、自分も幸せにする、みんなを幸せにすることなんだ。
イエスはそうやって私たちが差し出した小さなもの、こんなもの誰だって持っている、こんなこと誰だってできる、と思いつつ差し出したものを祝福して用いてくれる。私たちはなにを持っているか。何を差し出すのか。