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礼拝メッセージより
「どっち」 2008年4月27日
聖書:マルコによる福音書 3章1-6節
安息日
聖書に安息日の出来事が出てくる。2章23節からのところも安息日の出来事だ。そこで事件が起こった。
さて安息日とは創世記2章にあるように、神が天地を作ったときに7日目に休んだということに由来する。そしてモーセの十戒には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日のあいだ働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」と出エジプト記20章に書いてある。
また出エジプト記の34:21にも、「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作のときにも、収穫のときにも、仕事をやめねばならない」と書いてある。さらに35:2には「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる」とまで書いている。
こういう風に、安息日には休まにゃならんという決まりがあった。そういう律法があった。安息日には労働をしてはいけなかった。で問題は何が労働なのかということ。そこで律法の学者はこの安息日の律法を具体的に日常生活にあてはめるために39の規則を作り、さらにそのひとつひとつを6つの細則に分けていたそうです。ということは全部で234の細則でしょうか。
中には、ハンカチを持って歩くのが労働になり、腕にまくのが労働ではない、というようなことを真面目に議論していたらしい。火を使うことは労働になるので、安息日には料理をしないでいいように、前の日に安息日の分まで作っておくそうだ。ちなみに今では、エレベーターのボタンを押すのは労働に入っているそうで、安息日にはエレベーターは自動運転で全部の階に順番に止まっていくそうだ。これもエレベーターのボタンを押すことで火花が散るかもしれない、火花が散ると言うことは火を使うことになる、ということになるらしい。家のブレーカーが落ちても、それを戻すことも同じように火花が散るかもしれないので、安息日には自分では戻せなくて、ある日本人はユダヤ人から安息日にブレーカーが落ちたので戻してくれと頼まれたことがある、と聞いた。
安息?
そんなことまで労働になるということで、安息日に種まきや耕作、取り入れをするなんてことは当然絶対駄目、そして病気の治療もだめだったようだ。
そこで人々はイエスが安息日に病気をいやされるかどうかを固唾を飲んで見守っていたらしい。安息日の律法に違反するかどうかを見守っていた。
イエスも弟子たちも、安息日の律法を破る常習犯であった。しかしイエスは律法なんてものはまるで駄目な無用なものだと考えていたわけではなかった。しかし、イエスの律法理解とファリサイ派の律法理解とは随分と違いがあったようだ。
ファリサイ派
ファリサイ派の人たちはそんな律法を一所懸命に守っていたらしい。事細かに。自分たちがそうやって異常なほどに神経質になっているだけではなく、同じことを回りの者にも押しつけていた。俺たちはこれほどやっているんだ、という誇りと、お前たちは何をやっているんだ、ちゃんとせんか、やっぱりお前たちは駄目だ、何も知らないという人を裁く気持ちの両方を持つようになる。それは当然の成り行きだろう。
彼らだってただ意地悪で律法律法と言っていた訳ではなかっただろう。自分たちの良心に従って、ユダヤ教という宗教を守っていただろうと思う。そうすることが、律法を必死に守ることが神に対する忠誠の現れであると考えていただろう。実際、その忠誠心は大したもの、その熱心さはちょっとやそっとじゃ真似できないようなものだった。そしてその忠誠心がユダヤ教を支えてもいた。
彼らは律法を守り、ユダヤ教を守っていた。律法を守る集団はずっと生き延びていた。それを必死に守っていた。律法を守ることが何よりも大事なもの、律法を破らないことがすべてに優先することだったようだ。しかし、そのことで彼らは人間のいのちに無関心になっても平気であった。人間のいのちよりも律法を重んじたようだ。だからイエスは彼らに問いかける、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」しかしそれに答える者はいなかった。
律法を守っている、ということが善を行わないこと、命を救わないことの言い訳になっている。
教会も?
しかしこのファリサイ派の姿こそ、今のわたしの姿そのもの、私たちの姿そのもの、この教会の姿そのものかもしれない。
教会は善を行っているのだろうか。命を救っているのだろうか。教会はこうあるべきだ、という大儀面分を持ち出して命を救っていない、人を大事にしていないことがいっぱいあるんじゃないかと思う。
善いサマリア人
ルカによる福音書10章25節以下に善いサマリア人の話しが出てくる。
律法の専門家がイエスを試そうとして、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるかと聞いたところ、イエスは神を愛し隣人を自分のように愛しなさい、と言われた。そこで律法の専門家は、隣人とは誰なのか、と問う。そこでサマリア人のたとえ話しを始めた。
そこで追いはぎにあって死にかけている人がいたが、祭司やレビ人は道の向こう側を通って行った。しかし旅の途中だったサマリア人はその人を解放して宿屋へ連れて行き、費用は全部自分が払うからと言って宿屋の主人に世話を頼んだ。イエスはこの三人のうち隣人になったのは誰だと思うか、と聞いた。律法の専門家は、その人を助けた人ですと答えるとイエスは、行って、あなたも同じようにしなさい、と言った。
ここに命を助けようとしなかった祭司やレビ人が登場する。彼らは血に触れることも死体に触れることも、それは自分が汚れることだと考えていたらしい。だから死にかけているものの介抱をすることは、自分が汚れる可能性が大きい危険なことだった。だからその人を助けないという理由はあった。言い訳はできた。汚れないためなのだ、汚れて大事な神殿の務めを欠かすようなことがないためだ、と言えば通用するようなことだったのだろう。介抱することで、お前は何をやっているんだと言われかねないことだったのだろう。きっとその人を助けないということに対する、誰にでも反論できる理由、大儀面分があったのだろう。
でもそれは自分を守る理由だった。自分を正当化するための正当な言い訳だった。そしてそれは命を救おうとしない、誰かを助けようとしないことの、立派な言い訳だったのだろう。
僕もいろんな理由をつけて誰かを助けることも、守ろうとすることもしてこなかった。教会では穏便に穏便にと思ってきた。教会はどんな人でも受け入れるところだ、なんて思いつつ、そこで傷ついている人がいても知らんぷりをしてきた。
かたくな
イエスは安息日に会堂で手の萎えた人をいやした。人々はイエスがこの人を癒すかどうかを見ていた。しかしそれは、律法に違反するかどうかを見ていた。それが良いのかどうかを見ていた。その人を見ているのではなく、律法を見ている。律法に違反した、という気持ちばかりのようだ。手の萎えた人のことは全然見えていない。病気が癒されたことをその人と一緒に喜ぶ気持ちもない。
そんな人たちのかたくなな心をイエスは悲しんだと書かれている。これはこうあるべきだ、安息日はこうあるべきだ、教会はこうあるべきだ、そう言うことで人は自分が正しいと思う気持ちになれる。自分はそれを守っているんだ、と思うことで安心もできる。自分を正当化することもできる。
でもそんなことで人が見えていないなら、命が見えていないなら、それはただのかたくなな心でしかない。