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礼拝メッセージより
「罪人を招く」 2008年4月20日
聖書:マルコによる福音書 2章13-17節
徴税人
イエスのまわりには群衆が集まっていたが、レビはその中にいなかった。その中に入ることが出来なかった。入りたくてもなかなか入れなかったのかも。
カフェルナウムは国境の町で、そこには通行人から通行税を取る収税所があった。そしてそこに徴税人がいた。徴税人は、当時この地方を支配していたローマ帝国に納める税金を集めていた。異邦人であるローマの手下として働いている徴税人をユダヤ人は嫌っていた。
ユダヤ人は、異邦人とは地獄の釜にくべる燃料として生まれてきた、と思っていたそうだ。だからユダヤ教のファリサイ派の律法学者たちは、異邦人と付き合うなんてことはほとんど考えられないとんでもないことだった。そんな異邦人に支配されているということに対する鬱憤もだいぶ溜まっていたのだろう。異邦人と付き合い、支配者ローマの手先になって、人々に耐えきれないような圧迫を押しつけてくる徴税人を、ユダヤ人たちは極悪人のように見ていたようだ。徴税人たちは、決まった貿易からの取立だけでなく、市民の持つかごや包みを強引に検査しては、自分の見当で税という名目をつけて金銭を取り立てていたそうだ。徴税人は、いわば公然と強盗をしているようなものだったそうだ。
ユダヤ人たちは徴税人を罪人とみなし、遊女と同類の人間だと見ていた。親族の一人が徴税人になると、すべてが同じ仲間と見なされたという。回りからこんな風に見られていることから、レビは座ったままである。群衆の中に入って、イエスに付いていくことを望んでいたとしても、そうは問屋が卸してはくれないような立場にいた。
レビはどうしてそんな徴税人になったのか。レビの人生はどんな人生だったのか。レビとはユダヤ人としては由緒正しい名前である。アブラハムの第3子として、祭司族の祖となったレビに始まって、イエスの系図にもその名を持つ者が二人いる。名前負けしていると言うことがあるが、ユダヤ人たちにとってはこのレビはまさに名前負けしている人だったんじゃないかと思う。人々はレビを蔑みをもって見ていたに違いない。そしてそれに対抗するようにレビも殺気だった目つきをしていたのではないか。
でも恐らく好きでそんな仕事についたわけではなかったのだろう。まわりから白い目で見られる仕事を喜んで続けていたわけではなかったに違いない。ザアカイのように徴税人も頭にでもなれば、儲けは多いかも分からないが、下っぱのものはそれほど多い取り分でもなかったであろう。そんな生活に満足もしていなかったに違いない。食べていくためには何か仕事をしないといけない。けれども景気が悪いとまともな仕事口も少ない、きれいごとばかりでは生きていけない、何も言わずに雇ってくれたのが徴税人だった、ということかもしれない。
しかしそのレビの耳にもイエスの噂は届いていたであろう。預言者か、あるいはメシヤかもしれない男が現れたというので、多くの群衆がついていっていたことも知っていたであろう。もしかしたらこのイエスがいろんなことを変えていくかもしれない、自分の人生をも変えるかもしれない、そう思ったかも。そのイエスが自分の収税所の前を通りすぎていく。しかしレビは座ったままだった。
応答
こんなレビにイエスは声を掛けた「わたしに従いなさい」。
イエスの呼びかけにレビは立ち上がった。過去の重みのために立ち上がれずにいたレビを、イエスの言葉は立ち上がらせた。レビの心の中にイエスの言葉は入って言った。
イエスの突然の呼びかけに対して、あるものは網をすて、あるものは父を残し、あるものは商売を捨てて従った。イエスのことばには力がある。そこには束縛からの解放、自由への解放があった。病人をいやし、悪霊を追い出し、孤独や疎外や不安や無意味からの解放があった。その力有るイエスの言葉によりレビは立ち上がった。
レビの心はイエスの言葉によって変えられた。固く凍りついていた心が一瞬にして溶けたといったような感じかも。レビにとってイエスの言葉が転機となった。イエスに呼びかけられたこと、イエスに従うことが嬉しくて仕方なかったのだろう。その現れが、イエスを食事に招待したことだった。レビはイエスを食事に招待したが、イエスだけではなく、イエスご一行様みんなを食事に招いたらしい。その食卓には多くの徴税人や罪人もその席についていた。そんな人達をおおぜい招いて食事をしたのだ。
当時はよく客を招いての食事が、戸外や中庭や、見通しのきく屋上でなされたという。ファリサイ派の人達がこれを見て弟子たちに言う。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。ファリサイ派とは、聖書の律法を厳格に守ろうとする人たち。字面通りに守ろうとして時としてそのことから人を裁く。そのためよくイエスとぶつかっている。
彼らにとってイエスの行動はとても理解できないものだった。徴税人や罪人とつきあうこと、そんな汚れた者とつきあうことは自分自身も汚れると教えられていた。彼らのいう罪人とは、悪いことをした人ではなく、旧約聖書の律法を守れない人のことだ。律法を守れない者は神の命令を守れない者、だからきよくされていない、汚れた者であると思っていたらしい。罪人とはいわば収容的な失格者のことだ。仕事柄いちいち事細かな律法を守れない人がいた。そんな人たちが罪人とされていた。そして熱心なユダヤ教徒たちは、そんな律法を守れない人たちを罪人だと断罪し、自分達がいかに清く正しいかということを確認していたらしい。
こういうことを聞くとすぐに、あいつのことだ、あいつに聞かしてやりたいと思い当たる人の顔が浮かぶ。それこそがここに言う義人のことかもしれない。
イエスはファリサイ派の人から罪人とされている人達を招き、そのような人達といつも共にいたようだ。ファリサイ派が同じ席で食事をしてはいけないと非難したものたち、社会からのけものにされていた人達、徴税人などさまざまな理由から罪人とされていた人達と共にいた。当時は病人も罪人とされていた。
しかしそんなまわりの者から疎外されていた、のけものにされていた、けがらわしいとされていた者たちと、イエスはいつもいっしょにいた。虐げられている者たちと一緒だった。共に生きていた。
イエスは彼らと共に食事をする。イエスにとってはそれはごく当たり前の事だったのだろう。勇気をだして一緒に食べてたことではなかったのだろう。イエスは食事だけではなく、日常の生活をも共にしていた。
ファリサイ派の人たちにはそんなイエスの行動が理解できなかった。彼らは汚れから離れることで自分たちをきよく保とうとしているような気がする。汚れることが神から離れてしまうことになると思っているような気がする。
「義人は、自分の正しさを他人によって守ろうとする。他人にきびしいことによって、どれほど自分が義人であるかを示そうとする。義人といい、聖職者といいこれほど欺瞞に満ちたものはない。他人を責め、世の中を責めることで、いつのまにか自分が義人であると思い込む罪のからくりを自ら知ることは、実に実にむずかしい。そうでなくても人は、不親切な人を見て憤るよりも、親切すぎる人を見て腹立たしく思うことがある。陰にこもって毒々しい。」(手さぐり聖書入門」清水恵三著)
私たちもよくやる。世間はこんなに悪い、社会はこんなに悪い、教会はこんなに悪い、あいつはこんなに悪いと周りの悪い点を指摘することで、自分はなんだか正しい側にいるような気になっている。汚れていない清い人間でいるような気になってしまう。正しく清くなるほどに人を裁き、人を寄せ付けなくなっていくなんてこともある。
けれどもイエスは、わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである、というのだ。イエスは罪人を招くために来たというのだ。
人は自分をきよく正しくすることで神に近づこうとする。けれども神自らが罪人を招きにきた、というのだ。俺なんてもう駄目だ、もう神からも見捨てられてしまっているに違いない、神の国になんていれて貰える訳がない、そう思っている人のために、その人を招くために私はきた、とイエスは言うのだ。
レビはイエスの言葉にすぐに従った。彼の人生はあるいはもうぼろぼろだったのかもしれない。俺の人生はもうどにもならない、もうどうしようもない、と思っていたのかもしれない。しかしそんなレビをイエスは招いたのだ。私に従いなさい、私に従う人生を今から始めなさい、イエスはそう言う。レビの新しい人生はそこからまた始まった。だからレビは嬉しくて嬉しくて、みんなを食事に招いたのだろう。
私たちにもイエスは語りかけているのだろう。私に従いなさいと。イエスは私たちがいい人間になったから招いているのではない。いい人間になることを条件に招いているのでもない。そのままで従いなさいと言われているのだ。そのままの私たちを愛してくれているのだ。