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礼拝メッセージより
「権威ある新しい教え」 2008年4月13日
聖書:マルコによる福音書 1章21-28節
教え
ユダヤ教の人たちは安息日(土曜日)に、会堂(シナゴーグ)で聖書(律法)の言葉を聞いていた。イエスもユダヤ教の教えにそって会堂に入って人々に教え始められた。しかしイエスの教えは律法学者のような、それは多分律法の解釈、これはしていいとかしてはいけないとかいうようなものだったのではないかと思うけれど、そんな律法学者が解釈するような話しではなくて、権威ある者として教えたという。聴衆に迫ってくるような、心に響いてくるような話しだったんだろう。
実際この時イエスが何を教えたかは書かれていない。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、伝道の最初に語った言葉をここでも語ったのではないか。
その最初の言葉はどういうことだったか。それは神の定めた時はきた、もうすでにやってきた、神との直接の交わりを持てるときは来た、だから悔い改め神のほうに向き直りなさい、この福音を信じなさい、というものだった。この時もそんな話しをしたんだろうと思う。
終末はまだ来ていない。神の支配が完成する終末はまだ来ていない。けれどもその終末はもう始まっている。完成はしていないが、もうすでに始まっている。イエスが来て、神を顕し、神が今ここにおられることを示してくれたからには、終末という神の時はすでに始まった。神の国はもうここに来ている。だから悔い改めなさいと言われている。神は悔い改めることを求めているが、それは裁くためではなく、限りない愛をもって罪を赦すためだなのだ。神はあなたを待っているのだから、神の方に向き直って神との関係を持ちなさい、ということだ。
悪霊
その時会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて、イエスはその汚れた霊に男から出ていくように命じ、汚れた霊が出ていったことが書かれている。
イエスの教えを聞いた人々の反応は「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」というものだった。
おもしろいことに人々は「新しい教えだ」と言った。「新しいわざだ」とは言わなかった。汚れた霊を追い出すのを見たすぐ後なのに、新しいわざだ、とは言わないで新し教えだと言った。
汚れた霊とは、人を神から遠ざけるようなもののことなんだろう。イエスはこの男から汚れた霊を追い出したということは、神から遠ざかっていた男が神と出会えるようにした、神の教えを拒否していた男がその教えを聞けるようにしたということなんだろう。
イエスは奇蹟と呼ばれるようないやしのわざを次々と行った。しかし、イエスの活動の中心はあくまでも「教え」だった。神の国の福音を伝えること、福音を語ることが第一であった。
39節にあるように、イエスはガリラヤ中の会堂で宣教し悪例を追い出した。30節ではシモンのしゅうとめの熱病をいやしたことも書かれている。イエスの活動の中には「教え」と「わざ」の両方が含まれている。しかし、あくまでも「教え」が中心である。
奇跡
奇跡の方に人は注目する。いまでも超能力者と称する人がよくテレビにも出てくる。普通の人ができないことをする。テレビではそれを大げさに言う。昔スプーン曲げというのがはやった。おれが子どものころ。何とかできないものかとスプーンをなでたりした。一所懸命。でも曲がらなかった。曲がったらみんなに威張れるのにと思いながらだったが、そんな邪念があるからできないんじゃないのかと思って、無心になろうとしたけれど、結局何にも起こらなかった。その時はかなり失望した。
でもだいぶ後になって、じゃあスプーンが曲がったとしてどうなんだろうと考えるようになった。そのことを威張ることは出来る。すごいねえと言って貰えるだろう。けれどそれで幸せになるわけでもない、その時はうれしくなったとしてもただの優越感があるだけで、それだけじゃないか、と思うようになった。今でもよくやっている超能力だって、それができたからといってどうなんだと考えるとどうってこともないなと思う。
でも、最近はなんだかほんの一瞬喜ぶことのためにばっかりに心を奪われているような気がする。それをやっている時は嬉しいけど、やめたら何も残らないようなことに熱中しているような。ゲームしてもその時はおもしろくても、その時だけ、テレビ見ててもその時だけはおもしろいようでもその時だけってのが多いような気がする。その時おもしろければいいというものもあるだろうし、時には大した意味もなく大騒ぎすることもいいだろうと思う。でもそればっかりじゃ虚しいな、なんて思う。心の中にふつふつと喜びが沸き上がるような、メラメラと心を燃やすような、そんなものが大事なんだろうと思う。それはイエスの教え、イエスとの関わり、イエスに愛され大切にされているという繋がりなんじゃないかと思う。
イエスのまわりに集まって来た大勢の人たちの中には、イエスのわざを見ようとしてやって来た人も大勢いたであろう。病人や悪霊につかれたものを皆イエスのもとに連れてきたとある。しかし、そのことを通して人々はイエスの教えを聞いていったんではないか。ただ病気を治してもらうため、悪霊を追い出して貰うためにきたのだろう。教えを聞くためにきたのではなかったかもしれない。でもそこでイエスに会うことで、イエスの教えに触れることができた、福音に接することができたのではないか。
私たちも同じだろう。みんないろんなきっかけで教会にきた。イエスの教えを聞きたいからと思って来た人もいるかもしれないが、そんなこと考えもしないで来た人もいるだろう。どんな理由で来たとしても、要はそこでイエスに出会うこと、イエスの教えに耳を傾けることが大事なのだ。
35節以下の所では、イエスのうわさを聞きつけて、大勢の人が集まってきていたことが書かれている。その時イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」(38節)と言っている。イエス自身が宣教することが自分の目的であると言っている。このことからも「教え」が中心であることがわかる。
もちろんわざを否定している訳ではない。多くの癒しを行い、悪霊を追い出した。でもその多くのいやしは罪のゆるしの「しるし」として起こっている。
罪の赦しとは、神と人との交わりが人間の罪によって破壊されていたものを、神の側からあがないを備えて下さったこと。しかし、そのことを肉眼で見ることはできない。
不治の病の人がいやされて病床から起き上がるとか、いろいろな理由で社会からつまはじきされていた者が社会に復帰するといったことは見ることができる。そういう目に見えるしるしは、目に見えないことがあったことのしるし。何もないところで起こったものではない。目に見えない大事なことがあったからこそ、そのしるしが現れた。イエスの「わざ」はイエスの「教え」のもとに起こったしるしである。「わざ」を大事とする風潮がある。しかしやがては朽ちていくからだである。「教え」の方こそ重要である。
25節では汚れた霊に「黙れ」と叱った。34節では「イエスは、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」。イエスは人々を悪霊の支配から救い出し、同時にイエスが何者であるかを明らかにすることを禁じられた。
皮肉なことにイエスの正体を一目で見抜いたのは悪霊。人間はなかなかわからなかった。しかし本当に大事なのは客観的にイエスが何物なのかを知ること、イエスが神の聖者だという正解を答えることよりも、そのイエスとの関係を持つこと、そのイエスに愛されていることを、大切に思われていることを知ることだろう。
人を傷つけ、傷つけられ、自分の弱さ、だらしなさにひしがれている、希望を失っている私たちのところへイエスは来てくれている。そして罪深い、神の教えを拒否するような私たちに出会ってくれている。あなたはもう神に愛されているのだ、もう神の国にいるのだ、だから神の方を向いて、愛という神との関係の中に生きなさい、いつもあなたと共にいるこの私と共に生きていきなさいと言われている。