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礼拝メッセージより
「イエスのバプテスマ」 2008年4月6日
聖書:マルコによる福音書 1章1-11節
福音
今手元にある4つの福音書の中で恐らく最初に書かれたマルコによる福音書だが、この福音書の最初に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれているように、マルコはイエス・キリストの福音を書こうとしている。マルコは歴史的はことを証言するためにこの福音書を書いたのではない。文字通り福音を伝えるため、福音を書こうとしている。
この福音という言葉だが、ギリシャ語では「ユウアンゲリオン」ということばだが、その意味は「喜びの知らせ」「good news」、特に勝利を収めたときの喜びを知らせる時に使う言葉。つまり福音書とは喜びを伝えるもの。もちろんイエスのことが書いてあるが、イエスの生涯に何があった、いつどこでどんなことを、といったことを知らせることだけが目的ではない。それを記録することが目的ではない。そのことを通して、喜びを知らせる、喜びの知らせを伝えること、それこそが目的なのだ。イエスの語った話や、行いを通して、福音を知る。喜びを知る。それが福音書の目的。イエスは神の国の説教をしたり、奇蹟を行ったりするだけの方ではない。イエスは福音を語った。それだけではなく、イエスが福音だった。イエスこそ福音だった。イエスこそ喜びのおとずれだった。マルコはそのことを伝えるために、この福音書を書いた。
福音書とは信仰の証でもある。これを読めば、福音を信じることができて、救われるというものである。イエスを信じることが出来、救われるというものである。そこで私たちに喜びを与えるものである。
マルコは、ここで「神の子、イエス・キリストの福音」と言っているように、これは神の子について書かれたものである。神が地上にこられた。何のために来られたのか。それは神が、ご自分が作られた世界を取り戻すため。罪のために神から離れてしまっている人間を、取り戻すため。人を神から離れさせている罪をどうにかしないといけない。そこで神は罪を赦すしかないと考えた。罪の赦しを与えるしかないと考えた。そのために神の子が来た。
マルコは神の働きは、イエス・キリストに見ることができると伝えている。イエス・キリストを見ることは、その言動を見ることは神の働きを見ることだと言っている。イエスは神だ、と言っている。
神はイエスによってご自身を示された。そのイエスを福音書を通して知ることができる。マルコは信仰をもってこれを書いた。私たちも信仰をもってこれを読むとき初めて、福音書から福音、喜びのおとずれ、喜びの知らせを聞くことが出来る。そしてその信仰さえ、神が私たちに与えてくださったものなのだ。
神はご自身のことを私たちに示してくださった。それは全て神の憐れみからでたことだった。すべて神の恵みだった。私たちがイエスを知っている、イエスがキリストだと、救い主だと知っている、そのことを信じている、そのことは私たちの力で努力で得たものではないし努力で得られるものではない。全部、神が用意してくれたことだ。だからこそこの喜びは大きな大きな喜びなのだ。私たちの側に神に愛されるべき赦されるべき救われるべき理由は何もない、のに神は私たちを、私を救って下さる。神の子としてくださる。だから、喜びなのだ。私たちが何か良いことをいっぱいした、あるいは立派に誠実に生きてきた、その報酬として赦してもらったのではない。働きもなにもないのに神は人を愛し赦し救うのだ。
イエス・キリストの福音はそんな福音だ。だからこの福音は喜びの知らせなのだ。
預言
「預言者イザヤの書にこう書いてある」。正確にはイザヤ書 40:3 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」とマラキ書 3:1 「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」の両方。福音書は、これはイエス・キリストの福音を書いてあるものだ、という言葉に続いて、旧約聖書の引用、つまり旧約聖書のここにこう書いてある、ということから始まっている。
つまりイエス・キリストの出来事は、昔から神が伝えていたこと、約束していたことが実際に起こったことがらだ、ということ。
その神の約束の中に、「先に使いを遣わす」ということが書いてある。神ご自身の登場の前に、使者を送る、と神は約束している。その使者こそがバプテスマのヨハネである、とマルコは告げている。
荒れ野
このイザヤ書はバビロン補囚の時代に書かれた。自分たちの国が他の国に占領され、指導者たちはその国に捕らわれていった、そんな時代に神が語った言葉が、この言葉だった。荒れ野とは文字通り荒れた地で、石がごろごろしているところ。その土地に神は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われる。道のない荒れ地に道を備えよ、と神は言われる。神が捕らえられている者たちをイスラエルに返す道を備える、もうすぐ解放される、自由にされる、もうすぐ帰れる、神がそう言っている。捕らわれているバビロンとイスラエルとの間が、実際にこの荒野だそうだ。そこに道を整えよ、と神は言われる。
でも実際には見通しが全く立たない苦しい状況だった、にもかかわらず神はその真っ暗闇の真ん中に道を備えようとされる。イザヤはそのことを伝えた。
そして荒野とはまた私たちの人生そのもののことでもある。私たちの人生も、大きな石がごろごろして歩きにくく、太陽が容赦なく照りつける、日陰になる木もほとんどない、そんな荒野のようなものかもしれない。しかし、その人生の荒野にも神は道を付けようとされる。人生の荒野にも神は来てくださる。そしてマルコは私たちを縛りつける全ての者から私たちを解放する時、その時が今やって来た、この約束が今成就するという喜びを語っている。神が来るという喜び、神が私たちのところへ来るということ、そしてヨハネはその先駆けであるということ。ヨハネは神が遣わされた使いであって、イエスの道筋を整えるものである、そしてついにキリストが来た、とマルコは告げる。
悔い改め
ヨハネは荒れ野で語った。何もない荒れ野で語った。そこにユダヤ全土とエルサレムの住民は皆来たと書かれている。罪のゆるしは全ての人が受け取ることができる、また受け取るべきものであるからこそ。そのためには悔い改めなければならない。
悔い改めとは、向きを変えること。人間の性質、性格を変えてしまうことではない。そうなるかもしれないが、大事なのは、神との関係を変える、つまり神の方を向くということ。自分の進むべき方向へ向かっていく、そっちの方向に向きを変えるということ、それが悔い改め。
昔見たテレビで、小学校の運動会のかけっこのビデオが出ていた。ある子どもが一番になって先頭を走っていた、ところがその子はトラック沿いに走らずに退場門から出てしまった。そういうのを見ると笑ってしまうが、私たちの人生も、全く違う方向に向かって一生懸命に進んでいるようなものかもしれない。一番だぞ、と自分では自慢気に走っているが実はとんでもない方向に進んでいるなんてことがある。目的地に向かって走っているはずなのに、いつの間にか目的地がどこなのかもわからなくなってしまった。目的地もわからないけれど、兎に角一所懸命に走っている、目的地にむかうのが目的ではなくて、一所懸命に走ることが目的になっている、なんてことになってしまっているのが私たちの現状なのかもしれない。そんな私たちが神の方に向き直って進むこと、それが悔い改め。悔い改めとは、私が悪うございました、といじけることでもないし、これからは決して罪は犯しませんと、とその時から、罪のない人間になると宣言することでもない。罪も持ったまま、駄目なものも抱えたまま、神の方に向きを変える、それが悔い改めだ。
神の方向へ向かって行くためにも、神の言葉を聞いていかねばならない。どっちが進めばいいのかを聞いていかねばならない。
最近、いい車によくナビゲーションシステムというのがついている。これの多くが、人工衛星の電波を捕らえて、自分がどこにいるのかを知るもの。今自分の車がどの町のどこの交差点にいるのかがわかるそうだ。そこに目的地を入れておくと、次の交差点を曲がってください、なんてことまで言ってくれる。
聖書というのは、ナビゲーションみたいなものかもしれないと思う。その電波をキャッチしていないと、自分がどこにいるのかだんだんわからなくなってしまう。いつもキャッチしていると、いつもどこにいるのか分かる、私たちの向かって行くべき方向も分かる。もちろんそれで渋滞がなくなるわけではない。どうしても渋滞の中を通らないと行けないときもある。いかにも回り道のようなところを通ることもあるだろう。この道でいいのかと不安になることもあるだろう。しかしそれに従えば目的地に向かうことができる、そのためのもの、聖書とはそういうものなんだろうと思う。
罪人
荒野に登場したヨハネは私よりも力のある方があとから来る、と言う。ヨハネ自身はその方のくつのひもを解く値打ちもない、とさえ言う。神だから人間とは比べ物にならない、そんな方が来られて、聖霊によるわざを始められるとヨハネは告げた。
そのイエスはまず何をしたか。ヨハネからバプテスマを受けた。聖霊によるバプテスマを授けるはずの方が、まずバプテスマを受けられた。ヨハネが言っていることから考えると、ヨハネの方が何かをしてもらうことはあっても、ヨハネがイエスに何かをするなんてことはおかしいように思う。しかしそのおかしいことをイエスはされた。
イエスはバプテスマを受けるところから自分のわざを始められた。そもそもヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマだった。そのことから考えれば、罪のないイエスがバプテスマを受ける必要はなにもなかった。バプテスマを受けるのは罪人。罪人が悔い改めて受ける。神を忘れて神に向かっていなかったものが、神の方を向き直った時に受ける。だからバプテスマは罪人が受けるもの。
なのにイエスはバプテスマを受けた。なぜか、それはイエスが罪人の側にいたから、ずっと罪人の側にいようとしたからではないか。イエスは罪人とは反対の聖なる場所にずっといようとはしなかった。自ら進んで罪人の側に来られた。罪深い、弱い人間と同じ所に立とうとされた。実際に立たれた。だからバプテスマを受けられた。イエスはその活動の最初から人間の中におられた。罪人の中におられた。そしてずっと、十字架に至るまで罪人の中におられた。罪人の真ん中におられた。そこで、罪人の真ん中でイエス自身が聖霊の力に満たされた。10 「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」
神は天にいて、私たちとかけはなれたところにいるのではない。神は天を裂いておりて来られた。神は遠い遠いところからじっとこの世を見ているのではない。私たちの中に来られた。私たち罪人の中に来られた。神の力は罪人の中で発揮される。
また神は聖なるところにだけいるのではない。エルサレムだけにいるのではない。教会だけにいるのではない。清い、きれいな、罪のない世界だけにいるのではない。私たちが神に会うのは、私たちのきたないものを脱ぎ捨てたところで会うのではない。脱げればいいし、洗い落とせるならいいができない。しかし私たちの中に、私たちの普段の生活の中に、私たちの罪にまみれたこの世の生活の中に、イエスが来られた。罪の真ん中に来られた。毎日毎日私たちはイエスに会える。毎時間、毎分、毎秒、イエスに会える。それは私たちが神の中を生きていると言えるほどだろう。それはイエスがここにも来られたから、私たちの所にも来られたから、罪人の私たちの真ん中におられるから。
11 「すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」。神は大事なつとめをイエスに託された。この世の主として君臨することを許された。しかしそれは罪人を滅ぼすためではない。そうではなく、罪人を罪から解放して生かすため、そのために自らしもべとなって、人々に仕えるためであった。
イエスがヨハネからバプテスマを受けたとき、外見は他の人と何の区別も出来なかったのだろう。光輝くものとしてではなく、目立たないひとりの人間としてバプテスマを受けただろう。まったく普通の人間と同じように、罪人と同じようにバプテスマを受けた。イエスは私たちの真ん中にいる。罪人の真ん中にいる。ずっと罪人の真ん中にい続けた。取るに足らないような者たちの真ん中にい続けた。そしてそれこそが神の御心、神の心にかなうこと、神の子にふさわしいことだ、と天からの声は語っている。
しかし、その時人はイエスが分からなかった。神の子であることが、救い主であることが分からなかった。そして十字架につけて殺してしまった。
マルコはイエスこそ神の子であると信仰をもって語る。イエスこそ神である。イエスこそ救い主である。罪人の真ん中に来られた、私たちの真ん中に来られた、私のところにも来られたキリストである、マルコはそのことを語ってゆく。