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礼拝メッセージより
「絶望の中の希望」 2008年3月30日
聖書:ヨハネによる福音書 20章19-23節
平和
その日弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸には鍵をかけていたという。師匠であるイエスの処刑に弟子たちは打ちのめされていたようだ。次は自分たちにも同じような運命が待ち構えているかもしれないという恐怖におののいていたのかもしれない。
恐怖だけではなく、いろんなことに失望していたのだろうと思う。彼らは3年間イエスに従ってきた。イエスに希望を託し、自分の仕事を捨て、それぞれの人生を掛けてきた。しかしそんな命を掛けて従っていたはずのイエスは十字架で処刑され、しかも自分達は師匠に最後までついて行くことも出来ずに見捨ててしまったのだ。どこまでもイエスについていけたならば、それなりに満足感もあっただろう。けれども、調子の良いときにはかつての生活を捨ててすべてをイエスにかけて従っていったと思っていたのに、肝心な時にそのイエスをも見捨てて逃げてしまったのだ。この人について行けば大丈夫思っていた、自分たちの生きる道を見失ってしまった上に、自分たちの不甲斐なさをも思い知らされていたのではないだろうか。
そんな恐怖と絶望と挫折と、そんないろんな思いに弟子たちは打ちのめされていたのだろう。
しかしそんな中にイエスは現れる。復活のイエスが現れる。行き場のない、どこに行く力もなくしている弟子たちの中にイエスが入って来たというのだ。そして、あなたがたに平和があるように、と言う。
弟子たちはそのイエスを見て喜んだ。彼らは家の戸に鍵をかけ、何者をも寄せつけないようにしていた。そして彼らの心の中も同じような状態だったのではないか。誰の励ましも慰めも聞こえない、聞けない状態だったのではないか。
そんな中にイエスは現れる。イエスは弟子たちを責めに来たのではない叱りに来たのではない、裁きに来たのではなかった。平和を、平安を与えるために来たのだ。そしてそのイエスに会うことで弟子たちは喜んだ。
赦し
イエスは弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けなさいという。そしてだれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される、赦さなければ赦されないまま残る、という。何でこんなこと言ったのだろう。
赦すというのは相手を罪の束縛から解放させることだ。でも赦すというのは、相手を解放するだけではなく自分自身をも解放することだと思う。赦さないというのは、相手をその罪に縛りつけておくというだけではなく、赦さない自分自身をもそこに縛り付けることになる。相手を赦すというのは、赦せないという思いや赦せないという苦しみや憎しみから自分自身をも解放することでもある。だからイエスが言う、赦さなければ赦されないまま残るというのは相手に残るだけではなく赦さない自分にも残るということなのではないかと思う。
イエス自身が、私はあなたたちを赦している、あなたたちは赦されている、だからこそあなたたちも赦しなさいと言っているのだろうと思う。
疑い
今日の続きの所には、ディディモと呼ばれるトマスという弟子のことが書かれている。トマスは最初の日にイエスが弟子たちの所に来られた時には一緒にいなかった。そして他の弟子たちからイエスを見た、と聞いても信じなかった。釘跡に指を入れて、わき腹に手を入れてみないと信じないと言ったというのだ。
トマスは疑い深いのだろうか。よくそんな言われ方をするが。そうかもしれないがとても堅実なのではないかという気がする。私たちは周りの声にすぐに踊らされてしまうことが多いがトマスは自分でそれを確かめないと信じないと言う。
そのトマスが一緒にいる時にイエスはまた弟子達のところへ来られた。そしてトマスに、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい、と言う。トマスは、わたしの主、わたしの神よ、という。イエスは最初そこにいなかったトマスのためにまた現れたのだろう。十字架に付けられた姿のイエスが、傷を負った姿のイエスがトマスにも現れた。イエスは最初に弟子達に現れた時にも手とわき腹とを見せたという。トマスは指を釘跡に入れないと、手をわき腹に入れないと信じないと言っていた言葉に反して、そんなことをしたとは書かれていない。イエスと会ったことで、そんなことはどうでもよくなったかのようだ。
トマスは11章を見るとイエスが危険なユダヤへ行こうとした時に、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言っている。彼はイエスのために死ぬ覚悟を持っていたようだ。
しかし現実にイエスの身に危険が迫ってくると彼はイエスのもとにとどまることが出来なかった。そしてそれはトマスにとってもつらい現実だったのではないか。かつて自分はイエスと一緒に死ぬこともいとわないという熱意を持っていた。死ぬことも出来るという自信もあったのかもしれない。しかしそうではなかった。偉そうなことは言ったけれども出来なかったという自分の無力さ、だらしなさをトマスは他の誰よりも思い知らされていたのではないか。
トマスにとってもイエスが復活されたということは喜ばしい出来事だったに違いない。それが本当ならばどれほどうれしいことかという思いはあったのではないか。だからこそ余計にそれが本当なのかどうかを確かめようとしているのだと思う。人の話しを下手に信じれない、下手に信じて実は間違いでしたと言うようなことになったときに余計に落胆するようなことは何としても避けたかったのではないか。
本当にイエスが復活したならそこでもう一度やりなおすことが出来るかもしれない、そこにもう一度人生を掛けることができるかもしれない、そして今はそれが出来るかどうかの瀬戸際なのだ、だから簡単に人の話しだけで信じることは出来ない、自分でしっかりと確かめないではいられない、そんな心境だったのではないだろうか。だから敢えて強い調子で、釘跡に指を入れ、わき腹に手を入れないと信じない、なんてことを言ったのではないかと思う。ただ単に疑い深いとか不信仰だからというわけではないような気がする。それだけトマスにとっては大切な重大な問題であった、いい加減では済まされない問題であったということだったのだろう。だからトマスが復活のイエスと出会って、わたしの主、私の神よ、と言った言葉もとても真剣な言葉だったのではないか。そしてまたそれはきっと喜びの言葉だったのではないか。復活のイエスと出会ったという喜びは誰にも負けなく位大きかったのだろうと思う。
見ないで
復活とは一体何なのだろう。イエスはどんな姿で復活したのだろう。よくわからない。どこにそんな証拠があるのかという気もするが、科学的に証明できるようなものでもないようだ。
しかしたとえ科学的な証拠があったとしても、それが自分に関係のない出来事であったならばそれは自分にとっては何の意味もない。復活のイエスに出会わなければ、復活しようがどうしようが私たちにとっては大した意味はない。
弟子たちは復活のイエスに出会った、と聖書は告げる。イエスが逮捕され十字架につけられようとしたとき、12弟子たちはみんな逃げてしまった。そして周りの者を恐れて家に鍵をかけて隠れていた。その弟子たちは50日後には堂々とイエスを伝えるようになった。イエスがキリストであること、自分達はその弟子であることをみんなの前で離すようになった。彼らにいったい何が起こったのだろうか。
弟子たちはイエスと出会ったのだ。どんな形だったのかはよくわからない。けれども確かに出会ったのだ。弟子たちは復活のイエスと心の中でしっかりと出会ったのだろう。目に見えるような形での出会いだったのかどうかはわからないが、弟子たちは確かにイエスに出会った。そして失意のどん底にあった弟子たちは元気になっていった。そんな出会いがあったのだ。
イエスは弟子たちに、父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす、と言われた。裏切り者の弟子たちを自分が使わされたと同じように遣わすというのだ。それはどういうことなのだろうか。ということは弟子たちはイエスと同じような道を歩むということなのだろう。社会からのけ者にされ、苦しめられ蔑まれていた者たちと共に生きるように、そんな人たちのために命を張って生きるように、ということなのかもしれない。
イエスは私たちをもこの弟子たちと同じように遣わされている。それぞれの場所へ遣わされている。そこはただ受けるばかりではなく、イエスと同じように自分の才能も命をも与えていくようなところなのだろう。結構しんどい大変な道でもあるのだろう。しかし神は、絶望の淵にあった弟子たちを立ち上がらせたその同じ力で、無力な私たちを立ち上がらせ支えてくれている。