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礼拝メッセージより
「起死回生」 2008年3月16日
聖書:マルコによる福音書 16章1-8節
召天者記念
今日はイースター礼拝、並びに召天者記念礼拝である。教会の暦では今年は23日がイースターということになっているが、今年は都合により私たちの教会は今日をイースター・召天者記念礼拝として、世界に先駈けてお祝いすることになった。
イースターはイエスの復活をお祝いする時である。イエスは十字架にかけられて死に、三日目に復活したと聖書は証言している。そのことを喜ぶ時がイースターである。そしてその三日目というのは日曜日に当たる。もともと旧約聖書では、神が天地を造った時に週の7日目に休まれたことから、7日目つまり土曜日を安息日とするように書かれている。そこでユダヤ教では土曜日に会堂に集まっていたらしい。けれども、キリスト教の多くの教派は日曜日に礼拝をするようになった。それは日曜日にイエスが復活したとので、そのことから日曜日に礼拝するようになった。そして日曜日を主イエス・キリストの日、主の日と呼び、毎週の礼拝を主の日の礼拝、主日礼拝と呼んでいる。つまり礼拝はイエスの復活をお祝いすることであって、毎週の礼拝がイースターの礼拝でもある。
そして今日は召天者記念の礼拝でもある。先に召された方々のことをも思いつつこの時は過ごしたい。
先に召された方々ということで思い浮かぶのが、千の風になって、である。
千の風 あとに残された人へ
-作者不詳-
私の墓前で泣くのはやめてください。
私はそこにいません。眠ってなんかいません。
私は千の風となって大空を駆けています。
私はダイアモンドのきらめきとなって雪に舞っています。
私は陽の光になって熟した穀物にふりそそいでいます。
私は優しい秋の雨となっているのです。
朝の静けさの中、あなたが目覚めるとき
わき上がる風となって
小鳥たちを輪を描いて舞わせます。
私は夜に輝く静かな星となって、あなたを見守っています。
だからどうか私の墓前で泣くのをやめてください。
私はそこにいません。私は死んではいないのです。
人は亡くなるとどうなるんでしょうか。なんとなくお墓の中にいるような気もするし、そこにずっといるわけではないだろう、と言う気もする。ここに一緒に入ろうというお墓の宣伝があったり、同じお墓に入ってくれ、というプロポーズをした人がいるという話しも聞いたことがある。
よくは判らないけれども、お墓の中にいるよりは千の風になってくれてたほうがいいような気もするな、なんて思う。
ネットを見ていると、「住職のひとりごと」というブログがあった。その中で、人は死んでから49日たつと来世に行くのでお墓にはいない。でもこの歌のようにそのあたりにさまよっているわけではない。でも墓参りをするのは死んだ人の回向となるので大事なことだ、と書いてあった。
結局亡くなった人がどうなっているのかはよく判らないというしかないような気もする。
先日こんな話しを聞いた。千の風になってはイエスさまのことを歌っているのだと。そう解釈した方がすっきりするなと思った。イエスさまなら墓は空っぽでいないし、復活したんだからもう死んだままではない、生きている。この死にピッタリだと思った。
イースター
聖書の中にはイエスが行ったことや語ったことがまとめられている福音書というのが四つある。そしてその四つともにイエスが復活されたことが書かれている。それぞれの福音書にいろんなことが書かれている。
マルコによる福音書ではイエスの復活に際して女性たちが登場する。
ユダヤの一日は日没とともに終わる。そして次の一日が日没とともに始まる。
安息日が始まる前の日にイエスは十字架に付けられた。そしてその日の夕方には墓に入れられた。遠くから十字架を見守っていた女の人達のことが15章40節に書かれている。その内の二人が墓を見にいったことが47節に書かれている。
墓に埋葬されたのが夕方であったということはその日がもうすぐ終わり、次の日が始まろうとしている時だった。次の日とは安息日で、安息日には労働をしてはいけないという決まりがあり、あわてて埋葬したために遺体の処理を十分にする暇もなかったらしい。そしてそのことを女の人達はとても気にしていた。
そして香料を用意し、遺体を処理するために墓に行った時にイエスの復活を告げられる。白い衣を着た若者が復活を告げる。6節「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。・・・」なんてことを言う。全く予期せぬ事態に驚く彼女たち。イエスの遺体はなく、変な若者がいただけ、そして訳の分からんことを言われた。8節を見ると、彼女たちの驚きぶりが分かる。震え上がり、正気を失っていた、そして恐ろしくて誰にも何も言わなかったと書いてある。
彼女たちはイエスの復活を聞いて大喜びで帰った訳ではなかった。
イースターはイエスが復活した嬉しい日。そんな単純なものではないのかもしれない。イースターは震え上がる日なのかもしれない。
イエスは復活なさった、と書かれている。しかし正確には復活させられた。神によって甦らされた。イエスは弱い人間のままで十字架で殺された。絶望の叫びをあげて。いかにもうちひしがれて、と言った有り様。
イエスはその絶望するような状況を自分で振り切って自分の力で復活した、と聖書は言っていない。復活させられた、と言っている。神によって復活させられた、と言っている。そこまでただの人間でありつづけたということか。
イエスがどのように復活させられたのか、よくは分からない。どんな形で復活させられたのかもよく分からない。他の福音書を見るといろんなことが書かれている。十字架上でつけられた傷を触ってみなさいと言われたり、魚を食べたたりもしている。一方、戸締まりをしていた家の中に入って来たり、姿が急に見えなくなっていなくなったり。肉体をもってなのか、それとも霊みたいなのか、よくは分からない。しかしよくは分からないが復活のイエスは自分について来ていた女たちや弟子たちに会ったことが福音書に記されている。
出会い
復活のイエスと出会ったことを聖書は繰り返し書いている。それがいったいどういう出会いなのかもよくわからない。道で知った人とばったり出会うような、そんなのとは違うようだ。いったいどういう出会いなんだと思うけれども、その復活のイエスとの出会いから弟子たちを元気になっていった。
最初にイエスの復活を告げられた女性たちは、震え上がり、正気を失って墓から逃げ去った、そして恐ろしくてそのことを誰にも言わなかったと言う。あの方は復活した、なんて聞かされても何だそれはというしかない。そんなばかなと言うしかない。
イエスの復活のことを伝え聞いた弟子たちもみんな信じなかった、と聖書は伝えている。
イエスとの出会い、復活のイエスとの出会いによって弟子たちは変わってきた。十字架を前にして師匠を見捨てて逃げてしまっていた弟子たちが、その師匠のことを命がけで伝えるようになっていった。それはただ復活を聞いたからではなく、復活のイエスと出会ったからだろう。
もちろんそれは人と人が会うという出会いとは違うのだろう。心の中の出会いというようなものなんだろうと思う。その出会いによって弟子たちは変えられた。