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礼拝メッセージより
「ついて来なさい」 2008年3月2日
聖書:マタイによる福音書 4章18-25節
かつて
イエスが最初の弟子たちを招いた時の話しである。
寮をしているシモンとアンデレに、わたしについて来なさい、と言ったところ、彼れはすぐに従い、ヤコブとヨハネが船の中で網の手入れをしている時に呼ぶと彼らもすぐに従った、ということだ。いきなりついてこいと言われてすぐに何もかもしてて従ったのだろうか。
同じことがルカの福音書の5章にも書かれている。ルカの福音書によるとイエスはかつてシモンの家で、シモンのしゅうとめが高い熱を出していたのをいやしたことがあった(ルカ4:38)。そして一晩漁をして何も取れなかった朝にまた出会い、イエスにもう一度網を降ろしてみなさいと言われて大量になり、その後で「あなたは人間を取る漁師になる」と言われている。
弟子とされた者たちはそれ以前にイエスのことを見たり聞いたりしていたんだろうと思う。彼らはイエスに何かを感じて従っていったのだろう。
純粋
僕は大学をどうにか卒業して会社に入った。3ヶ月程してから勉強のためということで出向に出された。出向した会社には、すぐ上に大概機嫌が悪くすぐ怒鳴る上司がいた。変電所に置く送電線を守る装置を設計する部署にいたが、会社の組織もよく分からないし、仕事の仕方もよく分からないし、間違いや失敗だらけだった。そしてそんなことがある度にいつも大声で怒鳴られていた。会社に行くのがいつも嫌だった。朝会社に行くのが苦痛だった。その上司が出張でいない、という時だけは気楽だったけど。日曜日に礼拝に行くことはとてもいい気分転換になっていた。でも日曜日の夕方からまた憂鬱だった。
時々休んだりもしながら、それでもどうにか続けて会社には行っていた。一年半ほどしたころだったか、教会に西南大学の神学生募集のポスターが貼ってあった。牧師が、浅海君こんなん来てるよ、と言うので、じゃあ行きましょうか、と冗談に言う程その時は神学校に行くなんて気はさらさらなかった。ところがしばらくするといつも神学校のことが心の片隅にあるようになった。そこに行って牧師になるようにと言われているような気がしていた。でも仕事がいやだから、そこから逃げたいからそう思っているだけだろうから、しばらくしたらそんな思いもなくなるに違いない、なんてことを思いつつしばらく悩んだ。結局は牧師になるように言われているんじゃないかという思いは消えることはなく、仕事をやめて神学校に行くことにしたけれども、ただ嫌なところから逃げただけなんじゃないかという気持ちは今でもどこかにある。
神学校に行ってからも、私は神さまのことを伝えたくて来ました、というような人もいたけれども、そういう人の話しを聞く度にすごいな、と思って聞いていた。教会でもそんな偉大な志を持つことが大切だというふうに言われることが多いけれど、僕はどちらかというと後から無理矢理押されて仕方なく行った、といった感じだった。神学校に行った動機も、僕の場合結構不純だなと思う。
純粋な心こそ大事だ、とよく言われる。邪念が入るということはよくない、と言われる。そんな風に言われてきたような気がする。何をするにしても純粋な心でしないと意味がないようなことを聞かされてきた。しかし本来人間の心がただ純粋だけということがあるのだろうか。多分ないだろうと思うようになった。何をするにしてもいろんな計算をしながらである。いわゆるいいことと言われていることをするにしても、これをすればみんなからよく思われるだろう、相手から感謝されるだろう、なんてことを考える。ただ純粋に相手のためだけを思って、なんてことにはなかなかならない。これは僕だけのことなのだろうか。相手のためということがあってもやっぱりそれだけにはなれない。
そんなことではいけないのではないか、と思った時期があった。ボランティア活動をしようというとき、誰かの助けになることをするのに、少しでも邪念が入ってはいけないのではないか、と思うようになったことがあった。そう考えはじめると何も出来なくなってしまった。しばらくしてから、邪念が入るのは仕方がないことだと考えはじめた。大事なのは、自分の助けようと思う心がどれほど純粋であるか、ということよりも、相手の助けになるかどうか、それこそが大事なのではないかと考えはじめた。邪念があってもしょうがない、むしろそれはなくせないのではないか、ならば邪念を持ちつつ、できるだけ相手の助けになれるならばいいのではないか、と思うようになった。そうすると手助けすることへの抵抗感がだいぶ減ってきた。だからといって、そんなに助けになるようなことをしょっちゅうしている訳ではないが。
教会でも、信仰において純粋であることがすばらしいことであるように言われているように思う。一点の曇りもない、ほんのかけらも疑いを持たない信仰こそがすばらしい信仰であり、疑いや迷いを持つことは不信仰なのだというようなことが言われことがある。本当に疑いや迷いがない信仰を持てるのならそれはそれでいいのかもしれないが、実際はそんなことは不可能なのではないかと思う。疑いを持つなどと言うのは不信仰なのだと言われると、無理にでも疑いを持たないように努力し、そう振る舞ってしまうということになりかねない。あるいは疑ってしまっている自分を責めてしまうということになりかねない。そして実際教会でもそんな人を見ることがある。自分は清められているというようなことを言う人がいるが、そんな人に限っていつも威張っていて、人を傷つけても気づかないというようなことがあるように思う。
招き
イエスはどういうことで弟子たちを選んだのだろう。当時の漁師はそんなに学があるわけでもなかったそうだ。後々の弟子たちの様子を見ると彼らが信仰深かったわけでもないようだ。立派な純粋な人間というわけでもなかったようだ。そしてイエスの十字架を前にしてみんなそこから逃げてしまった。
迷ったり嘆いたり愚痴を言ったり、そして本当に大変な時には逃げ出したりする、そんな人間をイエスは弟子として招いた。イエスに呼ばれて、それに応えて従った者、それがイエスの弟子だった。地位も名誉も経歴も、そして信心も信仰も弟子となるための基準にはなっていないようだ。ただイエスについていくもの、それがイエスの弟子だ。
彼らはイエスに従っていくなかで、イエスの言葉を聞き、イエスの行動を見ていくことで神の業を、神の恵みを経験していった。いろんな失敗をしながらイエスに従っていく中でイエスのことを少しずつ知っていったのだろう。まるでバプテスマを受けるときのようだ。バプテスマは私たちが何もかも分かってからうけるのではない。分からないことの方が多い。そしてバプテスマを受けた後で、それからイエスの言葉をじっくりと聞いていく内に神の国を、神の恵みを経験していくのだと思う。バプテスマを受けたらもうそこで合格と思ってそこからイエスに従わなければ、イエスの言葉を聞いていかなければ私たちは神の業も神の恵みも経験することもないままになってしまうだろう。それは全く勿体ないことだ。
私についてきなさい、そして私と一緒に生きなさい、イエスは私たちにもそう言われている。不純な思いも、愚痴も嘆きも、失敗もだらしなさも全部抱えてイエスと一緒に生きていこう。