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礼拝メッセージより
「祈りと信念」 2008年2月24日
聖書:エステル記 4章1-17節
エステル記
ペルシアの王クセルクセスはスサの町で大酒宴を催した。王は美人である王妃ワシュティを招待客に見せようとしたがワシュティに拒否されてしまう。怒った王は大臣たちと相談した。王の命令を守らない王妃を赦すということになると、国中の妻たちが夫を軽蔑するようになる、ということで新しい王妃を選ぶことになった。そこで国中から美しいおとめを集めてそこから王妃を選ぶことになった。その中にユダヤ人モルデカイの養女で、ハダサとも言われるエステルもいて、誰よりも王に愛されて王妃になる。しかし義父であるモルデカイに命じられている通りに、自分がユダヤ人であることは明かさなかった。
そのころ王室の番人が王を倒そうと諮っていたが、それを知ったモルデカイがエステルを通して王に知らせた。そして番人たちは処刑されて、この事件のことは宮廷日誌に記された。
その後ハマンという人が王に次ぐ大臣のトップの地位に就いた。王宮の役人は王の命令によってハマンが来るとひざまずいて敬礼した。しかしモルデカイは、理由は定かではないが、ハマンが来てもひざまずかす敬礼しなかった。腹を立てたハマンはモルデカイがユダヤ民族であることを確認すると、国中のユダヤ民族を滅ぼそうと企んだ。プルというくじを投げさせて、ユダヤ人撲滅の日をアダルの月、つまり第十二の月の13日と決めた。そして王に、国の中に変わった民族がいて、そいつらは独自の法律を持っていて王の法律に従わない、だからそいつらを根絶する命令を出してくれ、そうしたら多額の貢ぎ物をします、というようなことを言った。ハマンは王の承諾をもらって、アダルの月の13日にユダヤ人を絶滅して、持ち物は没収する、という命令を王の名前で出した。
そこからが4章で、それを知ったモルデカイは衣服を裂き粗布をまとって灰をかぶり、叫び声をあげた。モルデカイがそんなことをしていると知らされたエステルは着物を届けさせたりしたが、そこでモルデカイはことのいきさつをエステルに伝え、エステルから王に、ユダヤ人絶滅の命令を撤回することを嘆願するようにと伝言した。エステルは、王に召し出されないのに王に近づくと死刑になる、と伝えてきた。モルデカイはエステルに、王宮にいるから自分だけ助かるなどと考えるな、こういうときのために王妃の位についたんじゃないのか、と伝える。エステルは今度は、自分のために三日三晩断食してくれと頼み、自分も断食する、と伝える。
そのあとエステルは覚悟を決めて王に会いに行く。王はエステルの願いなら国の半分でも与える、と言う。しかしエステルは王とハマンを酒宴に招待し、明日また酒宴にきてくれ、その時に自分の願いを話します、と言う。ハマンは王妃に招待されたということで上機嫌になるが、王宮の門に座っているモルデカイを見ると怒りが込み上げる。ハマンの妻や友人たちは、それなら高い柱を立ててモルデカイをつるすように王に進言したらどうかと言われる。
その夜、王は眠れなくて宮廷日誌を読ませていた。そこにはかつて番人が王を倒そうと諮り、モルデカイが知らせたという記録があった。そこで王は侍従たちに、モルデカイがどんな栄誉と賞賛を受けたのか、と聞いたところ何も受けてないと知らされる。そこにハマンがやってきたので、王は「王が栄誉を与えることを望む者には、何をすればよいか」と尋ねる。ハマンは自分が栄誉を与えられると思って、「王が望むのであれば、王の服を着せて、王の馬に乗せ、王が栄誉を与えることを望む者にはこのようなことがなされる、と言えばいい」と応えた。すると王は、王宮の門に座っているモルデカイに、お前が言ったとおりのことをしなさい、と命じる。
二日目の酒宴でも王はエステルに、望む者は国の半分でも与えるという。そこでエステルはユダヤ人たちが絶滅されそうになっているので助けてくれ、と言う。そうすると王は、そんなことを企むのは誰か、と聞き、ハマンの企みが王に知れることになる。王は怒って王宮の庭に出て行き、その間にハマンはエステルに命乞いにするが、そこに帰ってきた王はハマンが王妃に乱暴しようとしていると思い怒る。そしてモルデカイをつるそうとしてハマンが準備した柱にハマン自身がつるされることとなる。
その後ユダヤ人絶滅の取り消しが王によって認められ、ハマンの代わりに重用されたモルデカイと共にエステルはその取り消しを全国に知らせ、アダルの月の13日はユダヤ人の迫害者に復讐する日と定められた。ユダヤ人は敵に復讐を果たし、運命が逆転したこの日をいつまでも記念するよう定めた。その日がプルというくじで決まった日だったことからプリムの祭りと言われる。
できすぎた話しという気がしないでもない。水戸黄門が悪者を成敗していったような感覚に似ていて、ユダヤ人のことしか考えてないのかという気もするが。
信念
ことの発端はモルデカイがハマンに敬礼しなかったことだ。
なぜモルデカイはハマンに対してひざまずいて礼をすることをしなかったのだろうか。偶像崇拝に通じるという思いがあったのだろうか。明確にかかれているわけではないが、それはモルデカイの信念によるものだったのだろう。したくない者にはしないという堅い信念があったんだろうと思う。それをしなければ穏便にすんだのかもしれないし、それがこの事件の発端である。そしてそのためにモルデカイもユダヤ人たちも一度は窮地に陥ってしまったけれども、それでも神は守っているということを言いたいんだろうと思う。事件が起こることで却って自分たちも安心して暮らせるようになった。見えないところで見えない仕方で守ってくれているということだ。
エステルも同胞の民を守るという信念を持って、命の危険を冒しつつ自分から王に面会に行った。
祈り
エステルは王に会いに行くときに、自分たちもそうするから一緒に三日間断食してくれと頼んだ。これは断食して祈るということだろう。定めに反して自分から王に会いに行く、命の危険にさらされることにつながるかもしれないという時に、一大決心をして会いに行く。そんな時エステルは自分も祈るしみんなも一緒に祈ってくれ、と言った。
祈ることで一歩を踏み出す力が出てくるということなんだろうと思う。
その一歩を引き留めるいろんな力がある。力と言うより思いという感じかも。いろんな思いが自分の行動を引き留める。これをしよう、あれをしようと思っても、そんなことしたって何になるのか、自分にそんなこと出来るのか、また失敗してしまうに違いない、面倒だ、明日でいいや、そんないろんな思いがブレーキをかける。お前のやることなんて無意味なんだ、何の価値もない、という思いがあることで、自分にできることも出来なくなってしまう、あるいは今日やらないといけないことを次の日にまわしてしまって、やるべきことがどんどん溜まってしまうなんてことがある。どんどんためこんで身動き取れなくなって、自分はなんて駄目なんだ、なんてまた自分を責めるなんてことも多い。
今自分にできること、今自分がすべきことをやっていけるように、私たちも祈っていけばいいんではないかと思う。祈ったから急に力が強くなったり、頭が良くなったりするわけではない。でも祈ることで何かが変わる。
祈りとは神に繋がることなんだろう思う。お前は価値のない人間じゃない、お前のすることは無意味なことじゃない、お前自身大事な一人なんだ、お前のすることはとても意味のあることなんだ、という神の声を聞いていくこと、それが祈りじゃないかと思う。もちろん祈ったら失敗しないなんてこともないだろう。けれど、祈ることは自分自身を大切にしていくことなんだろうと思う。自分の大切さを確認することなんだと思う。
だから祈れるということは幸せなことだと思う。