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礼拝メッセージより
「為政者のため」 2008年2月17日
聖書:テモテへの手紙一 2章1-7節
事件
沖縄ではまた事件が起きた。ガソリンの税金を下げるとか下げないとかもめている。あるいは役所が税金を無駄遣いしていることも何回も言われている。
いったいなんなんだ、何やってんだと思う。文句を言いたいことをいっぱいある。
祈れ
でも聖書は、王たちやすべての高官のために祈りなさい、と言う。
神学校の時に、上に立つ者のために祈らねば、と言う話しになったときがあった。聖書に書いているように上に立つ人のために祈る、天皇のためにも祈るという人がいた。
その時、私はどうしても天皇のためには祈れない、と言う人がいた。その人は沖縄の人で、戦争の時に沖縄が見捨てられて多くの人が犠牲になったことや、その戦争の責任を取らなかったこと、そして戦後も米軍基地の多くが沖縄に置かれ続けていることなどがあってだったと思うけど、私はどうしても天皇のためには祈れない、と言っていた。そんなこと言ってしまっていいんだろうか、なんて思ったけれど、でもその人はとても正直だったんじゃないかと思う。
神は全ての人を愛していて、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでいる、ということは知っている。理屈は知っている、というか聖書の字面では知っている。そして分かったつもりになっている。でも知っているから本当に理解しているか、納得しているか、実行しているかとよくよく考えると実は理解も納得も実行もしていないんじゃないかと思う。
天皇のためには祈れないと言った人は、実は祈ろうとする気持ち、祈らねばという気持ちがいっぱいあるからこそ、祈れないという思いになっているのではないかと思う。僕は、真剣に祈ろうという気持ちもないから、簡単に祈らないといけませんねえ、と言って分かったような顔をしているだけだ。
行動
実際祈っていない。そんな人たちのことを考えてもいない、というのが正直なところだ。気に入らないことがあると文句を言うことはある。でも社会をよくするためにどうあればいいのか、自分が何をしたらいいのか、なんてこともほとんど考えていない。この社会の中で苦しんでいる人や悲しんでいる人のことを真剣に考えることもない。自分のことしか考えていない。それが現状だろうと思う。
上に立つ者のためになんて祈れるか、権力者のためになんか祈れるか、と思うけれども、実は自分の周りにいる小さく弱い人たちのことも祈ることはない。祈るのは自分のことばかりだ。
すべての人のために祈れ、と言われている。そのためにはこの社会のことをしっかり見ていないといけないのだろう。社会のことを知る。社会に目を向けることが必要なんだろうと思う。
祈ることは行動すること。関心を持つこと、見守ること、発言すること。
すべての人々のため
すべての人々のために、願いと祈りと執り成しと感謝とをささげなさい、と言われている。
教会は教会員のため、礼拝に来ている人たちのためにあると思っている。けれど、実は教会はすべての人々のためにある、ということなんだろう。
先日の聖書教育に、教会はなぜ存在するかということが書かれていた。そこにはこう書かれていた。第一にこれまで一度も教会にきたことのない人のため、神のことを知らずに福音に接したことのない人のために存在する。第二に、教会にいつもあるいは時々こられる、まだイエスに従っていないひとのために存在する。第三に教会員のために存在する。
きっとその通りなんだろう。教会は第一にまだ教会にきたことのない人のためにある。だからこそまた教会は全ての人のために願いと祈りと執り成しと感謝をささげなさい、王たちや高官のためにもささげなさい、と言われているのだろう。
教会は全世界のために存在している、世界の人のことを祈るために存在している、のかもしれない。そんな大切な大変な務めを私たちは託されている、ということなのかもしれない。
そして、そうやって祈ることは、私たちが常に新人と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためであるという。また救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることだ、と言われている。
祈り
祈りは神を変えることではなく、自分自身を変えることだと言うことを聞く。全ての人のために祈るということは、神に向かって、世界中の全ての人のことをよろしく、とお願いすることだけじゃなくて、それよりもすべての人のために自分を献げていくこと、自分が何をすればいいのかということを聞いていくことなんだろうと思う。