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礼拝メッセージより
「違い」 2008年2月10日
聖書:列王記上 12章25-33節
国家
最近愛国心という言葉をよく聞く。愛国心を問題にすることに対して、国を愛する心を持つのは当然じゃないかと言う声も聞く。
国とは何なのか。国民?、国土?、国会?、国家?。
先日のテレビで、国がどうあるのかを決めているのが憲法だと言っていた。国≒憲法と言っていたと思う。
でも何となく国とはお上という意識がどこかあるような気がする。
戦争になると国のために命を捨てよということが言われるけれど、本来国民が命を捨ててしまったら国はなくなってしまうような気がする。先の戦争では結局は国とは天皇のことであって、天皇のために命を捨てることがいいことだと言われていたのだろうと思う。
戦争に負けて民主主義になったことになった、と学校では教わった。そうかなと思っていたけれど、最近は違うのではないかという気がしている。
君が代が国歌ということに決まった。詳しいことはよく知らないけれど、これは古今和歌集という中の歌なんだそうで、古今和歌集というのは全部天皇のことを歌ったものだそうで、天皇様、千年も万年も繁栄してください、という歌なんだそうだ。
その歌を国歌ということに決めて、学校の入学式や卒業式には起立して歌うように強制されている。起立しなかったり歌わなかったり、伴奏しなかったりする先生は処分されてしまっている。
民主主義になったと習ったけれど、そうなってない部分がすごくあるような気がする。国ってなんなんだろうかと思う。
後継者
栄華を極めたと言われたソロモン王亡き後のユダヤの王を決めるためにイスラエルの人たちがシケムに集まった。そこにはかつてソロモンによってヨセフの家の管理者を命じられていたヤロブアムがきた。彼はアヒヤという預言者から、ソロモン王国の分裂の後10部族を支配するようになる、と言われていた人物だった。それを聞いたソロモンはヤロブアムを殺そうとしたので、ヤロブアムはソロモン王が死ぬまでエジプトに逃げていた。ソロモン王が死んだことで、人々から呼び戻された。
またそこにはソロモン王の子どものレハブアムも来ていた。かつてのソロモン王の子なのだから普通はレハブアムがそのまま王となるのが当たり前のような気がする。誰もがそう思っていたのだろうか。イスラエルの人たちはレハブアムに対してこんなことを言っている。
12:4 「あなたの父上はわたしたちに苛酷な軛を負わせました。今、あなたの父上がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、わたしたちはあなたにお仕えいたします。」
イエスが野の花を見て、栄華を極めたソロモンでさえこのように着飾ってはいなかった、なんて言ったことが新約聖書に書かれている。王が栄華を極めた背景にはここで言われているように、国民に過酷な軛を負わせて、過酷な労働を強いていたということがあったのだろう。そうするとイエスが言った、栄華を極めたソロモン、というのもちょっと皮肉で言っているのかな、と思ったりもする。
ともかく、ソロモン王の下で苦しんだ民はレハブアムに対して、もっと楽にしてくれ、そうしたらあなたを王にします、と言ったわけだ。レハブアムは側近に相談した。長老達は民に優しくしたらいつまでも仕えてくれる、と言った。けれど若者達はもっと厳しくしろと言い、結局若者達の言うとおりソロモンよりももっと厳しくすることにした。しかし多くの部族は逆らった。
結局はそのことからレハブアムはイスラエルの12部族のうち、南のユダ族とベニヤミン族の二つの部族だけの王ということになり、北の方の残りの部族はヤロブアムを王とすることになり、かつての王国は南北に別れて対立することになった。
国は別れてもイスラエルの民は相変わらず南のエルサレムの神殿で献げ物をしていた。ヤロブアムは宗教的な中心がずっとエルサレムにあったのでは、そのことで人々がレハブアムに支配されてしまうということを心配し、自分たちの国独自の宗教を作ることにした。金の子牛を二体造って、一体をベテル、もう一体をダンという町において、神殿を造って、勝手に祭りの日を決めた。これが私たちをエジプトから救い出した神だ、と言ってみんなにここで献げ物をするように、エルサレムの神殿に行く必要はない、これこそが私たちの国の神だと言ったわけだ。
違い
そのことが結局は北イスラエルの滅亡の原因となっていったと聖書は語る。自分の国を守るため、それは結局は王が自分の権力を守るためということなんだろうけれども、そのために神を利用した、神さえも自分の都合で支配しようとしたということだろう。
かつての日本も天皇が神だった。そこではそれ以外は許されなかったようだ。当時は教会の礼拝でも、最初に皇居の方角を向いて礼をして、君が代を歌ってから礼拝したと聞く。そうしない者は捕まってしまっていた。日本人とは天皇を神とあがめ、君が代を歌う者だということになっていたのだろう。
そして今も卒業式になると君が代を歌い、起立しない人や歌わない人をチェックしているそうだ。学校の先生はそのことで注意されたり処分されたりしている。
そんなことを聞くと何とけしからんと思う。国民のために国があるのではなくて、国のために国民がある、というようになっているような気がする。そして少しでもそぐわない者、違う者を排除しようとしたり、変な目で見るようなところがある。
けれども実は私たちにも同じような思いを持っているのではないかと思う。自分と違う人、自分たちと違う人、考え方が違う者や、服装が違う者でも変な目で見てしまうことがある。私たちは違いを認めることが苦手だと思う。違う相手を認めることがとても苦手だと思う。
教会ではどうだろうか。礼拝に行くのはいい人ばかり、だと思っている人が世の中にはいっぱいいる。そんなこと聞くと違うと思う。けれど、礼拝にやってくるときには、神さま信じてます、感謝します、と言わないといけないような雰囲気があると思う。教会で愚痴を言ったり、嘆いたりすることはいけないような恐れがある、そんなこと言ったら、周りから責められるのではないか、そんなこと言う者ではありません、なんて言われるんじゃないか、というような恐れがあるんじゃないかと思う。そんな雰囲気を私たちは造ってしまっているんじゃないかと思う。ひとりひとりの違いを受け止め、大事にしているだろうか。あるいは自分自身の不信仰やだらしなさや愚痴や嘆きを大事にしているだろうか。こうしなきゃ駄目よ、そんなこと言ったら駄目よ、と簡単に言いすぎているんじゃないか。そうそうそうなんよ、と簡単に分かった顔をし過ぎているんじゃないか。相手のそのままを真剣に見つめ、真剣に聞いているだろうか。
神は私たちのそのままを大事にしてくれている。弱って迷っていなくなった羊を捜し出してくれる。そうやって大事にしてくれている者のあつまりが教会だ。私たちは迷ってぼろぼろになって神に捜し出されたのだ。それぞれにぼろぼろのまま、集められているのだ。みんないろいろなところに傷を負っている。痛いところもみんな違う。そんな違いをも大事にしていきたいと思う。