前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「真理」 2008年2月3日
聖書:ヨハネによる福音書 18章28-38a節
ピラト
ポンティウス・ピラトゥス(Pontius Pilatus, 在位26年 - 36年)はローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督(ただしタキトゥスによれば皇帝属領長官)である。日本の聖書翻訳では格変化語尾を省いてポンテオ・ピラトと表記するのが一般的である。(wikipediaより)
ピラトにとってユダヤ人達はやっかいな人たちだったんじゃないか。皇帝礼拝をしないでも認められていたようだが、そのユダヤ人達の総本山の総督である。対抗意識を持っていたのかも。
ローマ軍の軍旗の先端に皇帝の像をつけてエルサレムにやってきた。それまでの総督はそう言う像がユダヤ人の嫌う偶像であると知っていたのでエルサレムに来るときはその像をはずしていたが、ピラトはそれをつけたままエルサレムにやってきた。そうするとユダヤ人達は像をはずしてくれと頼んだ。それでもなかなか聞いてくれないということで、ピラトに五日間まとわりついた。そこでやっと話しを聞こうということになったが、ピラトはユダヤ人達を周りを兵隊で取り囲んで要求を取り下げないと殺すと言った。そうするとユダヤ人達はならば殺せ、と頸を差し出した。無抵抗の者を殺すなんてことになるとユダヤ人達が騒ぎ出すに違いないし、ローマではおかしなことがあると皇帝に申し出ることができるということになっていたようで、治安を維持できない総督であるということになると自分の立場も危うくなる、と思ったのではないかと思うけれども、ピラトは軍旗についている皇帝の像を外すことに同意するしかなくなった。
ピラトとユダヤ人達にはその他にもいろいろといざこざがあり、ピラトにとってはユダヤ人は自分の思うようにできない面倒な人たちだったのだろう。
そんなユダヤ人達が今度はイエスを処刑してくれと言ってきた。
ピラトとユダヤ人との間で多少問答があったようだが、結局はユダヤ人達はピラトは脅迫しているようなものらしい。「罪があるから連れて来たのだ。我々が罪があると言っているのだからあるのだ。」というようなことらしい。
ユダヤ人
イエスを処刑したい。しかし死刑にする権利がない。
しかし本当はピラトが言うように所詮はユダヤ人の問題。単なる妬み。やっかみ? 自分たちのことを批判されることに耐えられなかったということか。
兎に角なんとしてもイエスを死刑にして、この世から抹殺しないとおさまらないという感じがする。一見冷静に見えるけれども、心の中は怒り狂ってる殺人鬼というような有り様だ。
しかし一方この期に及んでもユダヤ人たちは汚れないようにとつとめている。片や嫉妬のために何としてもイエスを抹殺しようとする用意周到な殺人鬼。片や飽くまでも律法を守ろうとする敬虔な宗教者。
この時は丁度過ぎ越しの祭りの時期だった。過ぎ越しの食事をするためには潔くないといけなかった。異邦人のすみかは不浄であると言われていた。また過ぎ越しの祭りは種入れぬパンの祭りでもあった。その準備にパン種狩り、という行事があって、各家庭から集めたパン種を燃やす行事があった。そんな時にパン種がある異邦人の家に入った場合は、夕方まで不浄でなり、沐浴をしてはじめてきよくなると考えられていた。だから総督の官邸に入らないようにするということは、神の律法をきちんと守るということだった。そんな言わば信仰深いユダヤ人たちなのだ。律法はしっかりと、それこそ命がけで守ろうとしている敬虔な人たちなのだった。
一見敬虔な者たちが殺人を計画している。恐ろしいことだ。なぜこんなことになってしまっているのか。
でもこれはユダヤ人の問題と言い切れない、他人事とは言えないことなのではないかと思う。
医者は病気を治すのではなく病人を治す、というようなことを聞く。そこにいる人間が見えなくなってしまってはいけないということだろうと思う。
教会は人間が見えているのだろうか。教会のしきたりや慣習、そんなことばかりに目を奪われていて、そこにいる人間が見えてないとしたら本末転倒だ。
自分がどうできているか、正しいか、よりも愛しているかどうかが大事なことだろう。
真理
イエスとピラトは真理とは、なんて問答をしている。真理とは何かと考えると難しい。
イエスは言う、真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。私たちにとっての真理とはイエスの声を聞くことだ。そしてイエスは、愛する者となるように、愛し合う者となるようにと言われている。