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礼拝メッセージより
「恵みの業」 2008年1月27日
聖書:コリントの信徒への手紙二 8章1-15節
報酬
世の中にはどうして金持ちがいて、そうでない人もいるのかと思う。
普通働いた報酬ってのは、働いた分に応じてということが考えられている。働いた量か、あるいは働いた時間に換算されることがほとんどだ。1日8時間位働くというのが基本的な仕事、のように思っている。それ以上の時間だといっぱい仕事したと思い、少ないとあまり仕事をしなかったような、そんな気になることがある。
けれども必ずしもそうとは限らないこともある。1年に何億も稼ぐ人もいるが、その人がサラリーマンの何十倍も何百倍もの量の働きをしているというわけではない。1日に80時間働ける人はいないわけで、必ずしも報酬が働いた時間に対して払われるとは限らない。
若い歌手が歌を歌って、たまたまあたってものすごい額のお金を稼ぐなんてこともある。歌がいいからとかいうこともあるかもしれないが、いい歌だと必ず売れるというわけでもなく、たまたま注目されたから売れたというようなことが多いように思う。
普通の仕事でも、同じ時間働いても仕事によって報酬も違ってくる。そうすると、報酬ってのは、必ずしも仕事の量、それに費やした時間に相当する、というわけではないということになる。今お金持ちの人もあまり持ってない人もいる。お金をいっぱい稼ぐ人もいるし、そうでない人もいる。でもそれらも結構たまたまそうなっている、たまたまお金がいっぱい手に入る立場に自分が立っているという面が強いのかもしれない、と思う。
でも日本人は、この金は俺が稼いだんだ、という気持ちが強いなんてことも聞いたことがある。だから、自分が稼いだんだから自分の勝手にする、金持ちになったのも自分が努力したからそうなったんで、これは全部自分のものだから全部自分のために使う、というような人が多いらしい。人のことは言えないが。アメリカなんかでは、企業でも個人でも、持っているものはいろんなところへ、教会とかいろんな団体とかへ献金するという気持ちがあるそうだ。それが慣習となっているということもあるのかもしれないが、自分が稼いだ、ということだけではなくて、与えられたという気持ちがあるからなのかな、と想像する。自分が稼いだ、という気持ちだけならば、自分のためだけに使いたい、他の人のためには出したくないと思う。けれどもみんなで生きるための分をたまたま自分の所へ預けられた、と思えばそれは自分のためだけではなく他の人のためにも使おうと思えるだろう。案外お金はそうやってみんなで生きるために私たちのところへ預けられているのかもしれない、と思う。
献金
教会の献金はそうやってみんなで生きるために自分のところへ預けられているものを、自分から離して差し出すことなんだろうと思う。
今与えられているものは全部自分の力によって得た報酬で、全部自分だけのものだ、と思っていたら献金なんてできない。それこそお金が余っているような大金持ちなら、余った中からできるかもしれないけれど。
でも自分に与えられているものが、みんなが生きるためにたまたま自分に預けられているものだとしたら、それは自分だけのものではないのだからみんなのために差し出すのは当然ということになるだろう。
そうすると自分はいくらしたからそれで良いとか、いうことが問題ではないということだろう。教会では収入の十分の一をと言う。それが基本なんだろうけれども、では十分の一をしたからそれで良い、それ以上することは何もないとか、あるいは逆にそれ以下だったらだめだとかいうことなのかというとそうではないだろうと思う。
小さな教会で牧師の給料も少なく生活も苦しいのに、それでも牧師には牧師らしくきよく正しくいるように、アルバイトなんてもってのほか、なんてことを要求する人もいるらしい。その人が自分は給料の十分の二も三も献金するとか、何とか少しでも牧師の給料を上げようとしているなら牧師も頑張ろうと思えるだろうけど、生活がどうあれ、他の仕事をするなんてのはけしからなん、なんて言われてたらやる気もなくなるだろうと思う。本当に心配している人は、ただけしからんなんて言い方はしないだろうなとも思うけど。
9節に、「あながたがは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」と書かれている。
キリストは私たちのために貧しくなってくれた、と言う。人となって私たちのところへ来てくれた。私たちを生かすために自分の命を差し出してくれた。自分の命をかけて私たちを愛してくれた。命をかけて私たちが大切であることを伝えてくれた。
キリストはそうやって自分の身を献げて私たちを生かしてくれた。相手を豊かにするために自分が貧しい者となった。そういう風に献身すること、自分自身を献げること、その一つの形が献金なんだろうと思う。誰かを豊かにするために、誰かを生かすために自分を献げる。その形の一つが献金なんだろう。
だから献金は額の多さや少なさ、収入に対する割合が大事なのではなくて、どれほど自分を献げているか、どれほど誰かのことを思っているかどうか、またどれほど感謝しているかどうかが大事なんだろう。
献げるということは自分が貧乏になることだ。自分が貧乏になることをいやがっていては献げるなんてことはできない。自分の才能もお金も時間も、それを使うことで自分は貧乏になる。しかしそのことで誰かを豊かにできる。
無牧師教会支援といって、牧師がいない教会へ時々説教の支援に行くシステムがある。牧師を送り出した教会はその日牧師がいないことになる。牧師がいないとき、その日の説教をどうするかということなど、牧師がいないことで困ることが出てくる。しかし無牧師の教会は基本的にそれが毎週続いているわけで、その大変さを時々牧師のいる教会が肩代わりするようなものなんだと思う。こちらが大変になることで相手が楽になる。こちらが貧しくなることで相手が豊かになるということはそういうことなんだろうと思う。
私たちは溜め込むこと、減らさないことをまず第一に考えがちだ。けれども溜め込むばかりでは喜びはない。献げるところに喜びがある。
誰かのために、神から与えられたものを神にささげる。そんな神との関係を持つこと、そしてそのことを通して誰かとの関係を持つこと、それは私たちにとっては何物にも代え難い喜びとなる。だから献金は恵みなのだ。恵みの業なのだ。だから献げなさい、と言われているのだろう。