前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「神の恵みに対する応答」 2008年1月20日
聖書:イザヤ書 56章1-8節
第三イザヤ書
イザヤ書は大きく分けると三つの時代に分けられて、56-66章は第三イザヤ書と言われる。そして第三イザヤの著者は一人ではなく、複数いたと考えている学者が多いらしい。
この第三イザヤが書かれた時代は、バビロニアを破ったペルシャの王によって、ユダヤ人は祖国へ帰って神殿を再建する許可が出された頃から後のことだそうだ。
しかしユダヤ人達がみんなが喜んでパレスチナに帰って神殿を再建しようとしたわけではなかったようだ。50年ほどの間バビロンに補囚されていたユダヤ人の多くは、そこでの生活を捨てて、荒れ野を横切って祖国に戻ることをいやがって、そのまま外国に残ることを選んだ。
しかし少数の者は祖国に帰り、神殿を再建する事業に取り組む人たちもいたようだ。でも50年振りに祖国に帰るということは、二世代程時代も変わっている訳で、バビロンに連れて行かれずに残っていたユダヤ人との対立や、当時ユダヤを属国としていたサマリア人の妨害などもあって、神殿再建も中断したこともあった。
それでもどうにか5年ほどの歳月を経て第二神殿は完成する。しかし神殿を中心とするかつてのような王国はできず、何とか祭司制度が確立したくらいだったようだ。しかし、その祭司制度もだんだんと形式的になっていった。また異邦人との結婚も広がっていった。そんな時にエズラやネヘミヤが登場し、異邦人との結婚を禁止したり、安息日の律法を遵守するようにと言って改革を行い、ユダヤ教団の基礎を築いていった。
半世紀にわたったバビロン補囚のために、ユダヤ人達は異邦人との接触を多く持ち、異邦人の改宗者も多くいたと思われる。かられはいったんユダヤ教団に受け入れられた。しかし異邦人を受け入れないという申命記律法(申命記23:3-7 23:3 混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。 23:4 アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。 23:5 それは、かつてあなたたちがエジプトから出て来たとき、彼らがパンと水を用意して旅路で歓迎せず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたを呪わせようとしたからである。 23:6 あなたの神、主はバラムに耳を傾けず、あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主があなたを愛されたからにほかならない。 23:7 あなたは生涯いつまでも彼らの繁栄や幸福を求めてはならない。)が注目されると、異邦人をユダヤ教団から排斥する運動が盛んになってきた。
第三イザヤ書はそんな背景の中で書かれ、まとめられてきた。申命記には混血の者は主の会衆に加わることができないとあるけれども、主を信じて、安息日を中心とする主の定めを守るならば、ユダヤ教団に受け入れられる、と励ましている。
礼拝
神を信じるなら異邦人であろうと宦官であろうと別に構わないではないかと思う。しかし、かつて律法の中で明確に書かれていることで教団に入ることを拒否されていたわけだ。そのかつての律法をここで撤回していることになる。
しかし条件があった。それは、正義を守り、恵みの業を行うこと、安息日を守りそれを汚すことがないこと、悪事に手をつけないように自戒することだった。そんな神との契約を守ることが神の民となる条件であり、そうすることで名前が城壁に刻まれ、神に覚えられるというのだ。
神の命令に従う者こそが神の民であって、血筋がどうであるかというようなことは問題ではない、というように考えられてきているようだ。
そうやって神の民とされたことを喜ぶこと、それが安息日を守るということでもあった。しかしやがてその安息日を守るということも、形式化されていくことになる。喜びの日であったはずが、何もしてはいけない日になっていった。
かつての安息日は週の7日目ということで土曜日だったが、私たちの教会ではイエスが日曜日に復活したことから、土曜日ではなく日曜日に礼拝する。
礼拝は私たちが神の民とされていることを喜び、神に感謝し、神を讃美する時だ。神とのつながりを再確認すると言うときでもあるのだろう。私たちはついつい神とのつながりを忘れてしまうから、忘れないように礼拝しなさい、と言われているのかもしれない。
しかしこの礼拝も、イエスの時代のユダヤ人達が何もしてはいけない日だと考えたように形式化しやすい傾向にあるように思う。礼拝を休んではいけない、というような言われ方をすることがある。しかし休んではいけないから来るのが礼拝ではないはずだ。礼拝に行くのは周りの者から、あの人は休まないでまじめに礼拝に行っていると言われるために行くのではないはずだ。
そうではなく、神に招かれているから、その招きに応えて行くのだ。この私を神の民としてくれているから、そのことを喜び、そのことを神に感謝するから行くのだ。そして神はそうやって礼拝する者にまた喜びを与えてくれるだろう。だからこそまた礼拝に行くのだ。
応答
つまり、神の恵みに対する応答、それが礼拝に行く理由だろう。この神の恵みに対する応答、というのをスチュワードシップというそうだ。
神の恵みに応えて私たちは礼拝し、献金し、奉仕する。献金も奉仕も、そして礼拝も、それは神の命令だからいやでもしないといけないからするものではない。それをしないと神の民とされない、不合格になる、というようなものでもない。
自分の大好きな恋人のためには自分の出来る限りのことをしたいと思う。そうやって相手のために一所懸命にすることが自分にとっても喜びだ。そんな時は相手の機嫌を損ねないためにいやいやするなんてことはないだろう。
私たちが神に応答する時、神の恵みに応答する時、礼拝し、献金し、奉仕する時もそれと同じだろう。それをすることが私たちにとっての喜びでもある。だからするのだ。