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礼拝メッセージより
「仕えること」 2008年1月13日
聖書:コリントの信徒への手紙一 3章1-9節
肉の人
霊の人と肉の人という見方をすればあなたたちは肉の人だ、とパウロはコリントの教会の人たちに言う。
肉の人とはキリストとの関係で乳飲み子である人々のこと。乳飲み子には乳を飲ませて固い食物は与えない。しかしコリントの教会の人たちはその乳飲み子のように乳が必要な者だと言う。
コリントの人たちは自分たちはもうすでに乳飲み子ではないと思っていたのだろう。すでに成人して固い食物を食べることが出来る力を持っていると思っていたようだ。自分では霊の人、であると思っていたようだ。
お前達は乳飲み子だといわれたらどう思う? 聖書も結構読んでいるし、教会のことをよく知っている、社会経験もしている、乳飲み子だなんて失礼な、と内心思うのではないかと思う。
しかしパウロはあなたたちはまだ乳飲み子だという。だから乳を与え続けるという。教会のいろんな役割も担ってきた人たち、もう何年も教会に通っている人たちにとって、あんたらはまだ肉の人だ、なんて言われることはとてもショックなことだったろう。
彼らにとって乳はもうすでに必要ないものと思っていたらしい。それなりに成長していると思っていたのだろう。しかしパウロは彼らにはそれがまだ必要だと言う。この手紙でパウロは十字架のイエスを伝えた、それだけを伝えた、という。コリントの教会の人がもうそれ以上必要ないと思っているもの、充分に知っていると思っているもの、もう今更聞かなくても知っているよ、と思っていたであろう十字架のイエスをパウロは伝え続けた。私はもうそれしか知らない、というほどにそのことにこだわりそれだけを伝えた。それはコリントの教会にとってもいつまでも必要であり、大事なものであったからだ。しかしその大事なものをコリントの教会の人たちにはまだ充分に取れていない。教会にとって基本である乳もまだ十分に飲めていない。だからただの人でしかない、肉の人でしかない、という。
内紛
その証拠は、お互いの間にねたみや争いが絶えないということ。ねたみや争いがあるということは肉の人だ、あるいはただの人だ、というのだ。
「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」と言っているとすればあなたたちはただの人に過ぎない、と言う。ただの肉の人に過ぎない、人間的な欲望に従っているだけのものに過ぎないという。
今でもありそうな話しだ。あの先生の方が立派だ、いやあっちの先生の方がいい働きをした、なんてどっちが偉いかという話しになることも多い。そうしてけんかしたり。ところが当の先生たちは仲が良かったりする。
正しさ
人はどうして仲たがいするのだろうか。それは自己中心的なところがあるからだろう。自分が満足できればそれでいいと思うところがあるからだろう。
私たちはいつも自分を正当化したいと思っているのではないかと思う。いつも正しい側にいたいと思う。そして自分が正しい思えるときには、その正しさを主張したり間違っている人を責めたりする。相手に正しいことを教えようとしたり、間違っているとして裁いたりする。
結局神の声を聞いてどう生きるかよりも自分がいかに正しかったかを求める。そして自分の正しさを認められることで安心する。また誇りに思う。逆に間違っていたとなるとめちゃくちゃ落ち込む。つまり自分を高く持ち上げようとしているということだろう。結局は自分なのだ。神がどう言っているかよりも自分が正しいかどうかの方に関心がある。
私はこんなに神のことを知っている、聖書のことも知っている、教会のことも知っている、と思うことで安心する。教会はこうあるべきだ、礼拝はこうすべきだ、ということを誰よりも知っている、ということで私たちは安心するという面があるのではないか。きっとコリント教会でもそういう風に、私の方が正しい、こうすべきなのだ、というような争いがあったのではないかと想像する。
十字架
しかしそんなコリントの教会の人たちに対してパウロは彼らよりもっと難しい理屈で説き伏せるようなことはしない。偉そうなことをいっているけれども、本当はこうすべきなんだ、と言って叱りとばして縮み上がらせた訳ではなかった。
パウロはただ十字架のイエスを伝える。十字架のイエスだけを伝えようとする。彼らの仲たがい、争いに対する答えがそこにあるということだろう。教会にとっての基本がそこにあるということだろう。イエスという土台がしっかりしていないから、そこから争いやいさかいが起こるということだろう。
フィリピの信徒への手紙2章6-8
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
イエスは神であることに固執しなかった。神であるという正しいところにずっといてそこから人間に命令したわけではなかった。そうではなく、自分がその神の領域から、人間のところへ出てきた。正しい側にしがみついているのではなく、間違った側に来てくれた。そして間違いだらけである人間のそばに来て、人間の苦しみや嘆きや悲しみや憎しみも含めて全部を受け止めてくれた。その結果が十字架だった。
イエスはただすべてを受け入れ、すべてを包み込んでいった。
そして実際私たちもそうして包み込まれた者同士だ。すべてを受け入れられた者同士だ。間違いも罪も持っているのに憐れんでもらって、愛してもらっている者同士だ。もし仲たがいしているなら、争っているならそのことを忘れてしまっているのではないか、十字架のイエスを忘れているのではないか、一番大事なことを忘れているのではないか、自分のことばかり考えているんじゃないのか、自分の正しさばかり求めているのではないか、そして相手のことを何にも考えていないのではないか、愛していないのではないかとパウロは語り掛ける。
愛すること、仕えること、そんな大事なことを忘れているから、ないがしろにしているからこそ仲たがいが起こるのだ。大事なことを抜きにして、どれほどいろいろな知識が増えたとしても、いくら偉そうなことを議論をしたとしても何にもならない、とパウロは言う。
成長
成長させて下さるのは神である、と語る。私たちは自分で知識を増やし自分で鍛え、成長すると思っている。あるいはそうして成長したという気になっている。しかしパウロは成長させるのは神だと語る。神が成長させて下さるのだ。
神に憐れまれる、愛されることで私たちは成長するのではないか。人は愛されることではじめて愛することが出来る。神に赦されることで、愛されていることではじめて人を愛することが出来る。
成長した人とは、聖書や神や教会に関する知識をいっぱい知っている人のことではなく、隣人を愛する人、隣人仕える人のことではないだろうか。誰かよりも正しい、間違いのない人になることではなく、愛する者となることこそ成長した人なのではないかと思う。
神を愛し、人を愛しなさいというのが一番の掟であるとイエスも言っている。愛するということは相手のことを思うことだ。自分から相手の所へ出ていって、相手の側に立つことだ。
他でもないイエスがそうしてくれた。十字架の愛をもって私たちは愛されている。そのことを真剣に受け止めていきたい。そこが私たちの原点であり私たちの立つべき土台なのだ。そこを離れては成長もないのだろう。