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礼拝メッセージより
「恵みの管理者」 2008年1月6日
聖書:ペトロの手紙一 4章7-11節
迷惑?
どんな子どもに育って欲しいかと親に聞くと、人に迷惑だけはかけない人間になって欲しいと答えることがよくある。兎に角人に迷惑をかけないことが大事なことだということをよく聞くし、そう言われるとなかなか反論もしにくい。できれば迷惑はかけない方がいいのかもしれないと思う。
でも実際に人に迷惑をかけないで生きることは可能なのだろうか。自分の人生を振り返っても、今までいろんな人に迷惑をかけてきている。迷惑をかけることで辛うじて生きてきているという感じだ。迷惑をかけない人間になるなんてことはとても出来そうにないと思う。人が生きていくということは、お互いに迷惑をかけあうということでもあるんじゃないかと思う。
徹底的に誰にも迷惑をかけないようにしようとすると、結局は人との交わりを絶つしかないんじゃないかと思う。無人島にでも行くしかないような気がする。それでも誰かに心配かけてしまいそうだし、やっぱり誰にも迷惑をかけないなんてのは本当はありえないような気がする。そして案外、俺は誰にも迷惑はかけてない、というような思いで生きている人が実は一番迷惑になっているような気がする。
だったら迷惑をかけない人間になる、なんていう本当は出来もしないことを目指すんじゃなくて、迷惑をかけなければ生きていけない人間なんだということを自覚して、自分はそういう人間なんだということをわきまえることを目指した方がいいんじゃないかと思う。そして自分はいろんな人に迷惑をかけていて、その迷惑をいろんな人に受け止めてて貰っていることを感謝する人間になることを目指した方がいいと思う。そう思えたら、他の人から迷惑をかけられることも当然だと思えるし、お互い様だと思えるんじゃないかと思う。
愛し合うってのは、もしかしたらそういうふうに、お互いの迷惑を受け止め合うことじゃないか、と思ったりする。
祈り
ペトロの手紙では、私たちが大事にしていかないといけないことが書かれている。7節では「思慮深くふるまい、身を慎んでよく祈りなさい」と書かれている。まずは祈ることだ。祈ることとは、自分の願いを神に言うことでもあるが、それだけではない。あのことを自分の願いどおりに変えて欲しい、あの人をこんな人にしてほしい、ということを神にお願いすることが多いのだが、それよりも祈ることとは神の声を聞くことである。そして祈ることで自分のなすべきことを知る。祈ることで自分自身を知るのかもしれない。
こんな話しがある。
『自分を変えることで世界を変えなさい』
スーフィー派信者のバヤジッドは、自分自身についてこのように言っています。
「若かったころ、わたしは革命家でした。〈神〉へのわたしの祈りはすべて次のようでした。『主よ、わたしに世界を変えるエネルギーをお与えください。』
わたしが中年になり、わたしの半生がたったひとつの魂さえ変えることができずに過ぎ去ったことに気付いたとき、わたしはわたしの祈りを次のように変えたのでした。『主よ、わたしにわたしと接触するすべての人を変えるお恵みをお与えください。家族と友人だけでも結構です。わたしは満足いたします。』
老人となり、残りの日々が限られてきた今、わたしは自分がどんなに愚かだったかわかりはじめたのです。今、わたしのただひとつの祈りは、『主よ、わたし自身を変えるお恵みを下さい』となったのです。もしわたしが初めからこのように祈っていたら、わたしの人生をむだに過ごさなくてすんだでしょうに。」
すべての人々が、人間を変えようと考えます。自分自身を変えようとはめったに考えません。
「小鳥の歌」
(アントニー・デ・メロ著)より
祈ることは自分自身を変えるなんだろう。私たちも世界を変えて欲しい、あの人を変えて欲しいと願うことが多い。でも誰か偉い人が言っているように、祈りとは神を変えることではなく、自分を変えることなのだと思う。
自分の何を変えるんだろう。自分の何を変えることを祈るのだろう。
愛
続けてペトロの手紙は、何よりもまず、心を込めて愛し合いなさいと言う。まず愛し合いなさいなのだ。愛は全てに先行する。
私たちは愛することよりも、相手がどうであるかということを吟味する。優しい人か、厳しい人か、そして特に自分に対してどうなのか、自分に対して優しくしてくれるか、自分のことを分かってくれるか、自分を愛してくれるかどうか、ということを吟味して、そういう人であれば愛そうかな、と思う。自分の気に入った人には優しくしようと思う。しかし自分に優しくない人、自分のことを分かってくれない人のことは愛さない。却って憎んだりする。
愛は多くの罪を覆うとまで言う。愛したってどうにもならない。悪いのはあいつなのだからあいつを罰しなければ、懲らしめねばならないと思う。愛することよりもまずあいつを正さねばと思う。しかし実は愛は多くの罪を覆うと言うのだ。
私たちは正しくあることを求めすぎているのかもしれないと思う。間違いがあってはいけないのだ、と教えられてきた。間違いがあればそれを一所懸命に正そうとする。自分の間違いも、誰かの間違いもそれをまずは正さなければという気になる。あれはおかしい、あいつは間違っているということを真っ先に思う。教会に対しても、教会はこうあるべきだ、これが教会の正しい姿だ、というようなことを求めすぎているのではないか。しかし聖書は一貫して愛しなさい、愛し合いなさいと言う。正しさを求めるよりもまず愛し合いなさいと言う。不平を言わずもてなし合いなさい、と言う。互いにもてなすようにと言うのだ。
出来る者が出来ることを
また続けて、奉仕をする人は神がお与えになった力に応じて奉仕しなさいという。神が与えてくれた力に応じてとはどれ位なのだろうか。どんなことなのだろうか。
小耳に挟んだ話によると、どこかの教会の方針は、出来る人が出来ることを、ということだそうだ。そしてそこの教会ではそれぞれに喜んで奉仕しているということらしい。出来る人が出来ることをしましょうなんて当たり前じゃないかという気もするが、案外出来る人が出来ることを喜んでするというのがなかなか出来ない。私はこんなにしているのにあの人はなんだ、なんてことを思いがちである。あるいは反対に、こんなことしたって意味はない、誰にだってできることだ、なんて思って出来ることもしないなんてこともある。出来る人が出来ることを喜んでするって、その気持ちがないとなかなか難しいと思う。
でも自分の出来ることは自分が喜んでする、それこそが奉仕だろう。そして聖書ではその出来ることというのは、神がその力を与えてくれたからこそ出来るのだ、と言うのだ。奉仕をする力は神が与えてくれたというのだ。
逆に言えば、その奉仕をするために神が力を与えたということになる。奉仕をするために、仕えるために神は私たちにそれぞれに賜物を与えているというのだ。そうすると賜物を与えられていながらその奉仕をしないということはちとまずいことになる。
そして賜物はあくまでも神から預かっているものなのだということだ。神の恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい、と言われている。私たちは管理者なのだ。だから賜物はこんなすごい物をわたしは持っているのだと自慢するようなものでもない。たまたま自分に預けられているものだというのだ。神の計画の中の一部として自分に預けられている。だからその賜物を用いないと言うことは、生かさないということは神の計画自体が進まないと言うことになる。そして神の計画は互いに仕えるということのようだ。仕えるための賜物なのだ。隣人に仕えるため、教会の隣人に、そして教会の外の隣人に仕えるためのものなのだ。
仕えるとは、自分の賜物、能力、時間を誰かのために使うということだろう。そしてイエスが言ったように、自分がして欲しいことを人にすること、なんだろう。説教を聞きたいのに奉仕をすることでゆっくり聞けないと思うこともあるだろう。でも自分が奉仕をすることで、他の誰かにゆっくりと説教を聞かせてあげることができる。それは奉仕する者にとっては迷惑な話しだろう。
あるいは子どもがうるさいから、お母さんがしっかり面倒を見るようにとか、お母さんが一緒に来れないなら子どもを来させるな、という話しがあった。自分が落ち着いて礼拝できないから邪魔するな、ということだったんだろうと思う。しかしそれはそのお母さんも子どもも教会から排除すること、神さまから遠ざけることで、それは仕えることでも愛することでもないと思う。自分がその子どもの面倒を見るならば、そのお母さんはゆっくりと礼拝できるだろう。また騒がしいという迷惑を受け止めるという気持ちを持つことで、子ども自身も教会の中で育っていくことができる。
自分にこうしてほしい、と思うことが本当に多いけれども、それを周りの人にしていくように、とイエスが言われたようにしていくこと。それが奉仕なんだろうと思う。そういう風に奉仕するために、私たちは賜物を与えられている、だから奉仕しなさいと言われているのだ。
そしてそれもまた愛するということなんだろうと思う。
そして神から与えられた力に応じて奉仕することは、イエス・キリストを通して、神が栄光を受けるためであるという。なんじゃらほいと言う気もするが、賜物を生かし奉仕することで教会は建てられていく。私たちはその教会の一部とされているのだ。教会は建物のことではない。教会は人がキリストのもとに集められたものだ。教会は建物のように動かないものではない。教会は生きていていつも呼吸している身体のようなものだ。教会がキリストの身体と言われている通りだ。教会が生きているためにはそれぞれの部分がいつも生きて動いていないといけない。部分である私たちが生きて動いていないと、つまり賜物を生かして奉仕していないと、愛し合っていないと、教会は死んでしまうということだ。ひとりひとりが奉仕することで教会は生き生きと生きることができるのだ。教会が生き生きと生きることで、私たちもまた生きていくことができる。