聖書:コリントの信徒への手紙一 15章20-34節
死
高校生の時、家から学校まで10kmの道のりを自転車で通っていた。時々親父に車で送ってもらってたりもしてたけど。
急いでも30分位はかかるのでいろんなこと考えながら自転車を漕いでいるわけだけれど、ある時自分の将来について考えていた時があった。このまま高校を卒業して大学に行ったとして、それからどこかの企業に就職して、定年になったら仕事をやめて、なんて考えながら自転車を漕いでいた。どういう風になったらいい人生だと思えるんだろうかとか、どうなったら幸せな楽しい人生だと思えるんだろうかなんて考えていた。金持ちになり有名になれたらいいかな、なんて思いつつ、そうなったとしても結局は死ぬんだろうなと思った。何がどうなっても結局は死ぬんだ、と思った。そうするとなんだか全部空しいような気持ちになった。どんなに有名になったとしても、みんなからどれほどちやほやされていたとしても、どんなにうれしい、楽しい人生を送ったとしても、結局死ぬんだと思うと、そんなことが全部吹っ飛んでしまうような気持ちになった。どう生きようと、どうせ死んだらそこで終わりなんだと思うと何もかも空しい気持ちになった。
輪廻転生と言われるような、死んだ後また別の者に生まれ変わる、なんて聞いたことはあったかもしれないけれど、そんなことがあるなんてその頃から思ってなかったし、兎に角死んだらそこで自分の全ては終わるのだとしか思っていなかった。
今でも死んだらそこで全部終わる、全部なくなるんじゃないか、という気持ちがないわけではない。本当に死者の復活なんてあるんだろうか、と思う気持ちはある。
復活
でも死者の復活はある、とパウロは語る。
コリント一の手紙の15章の所では、ずっとキリストの復活について語っている。3節以下では福音の最も大切なことは、キリストが聖書に書いてある通りに私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、そして弟子たちに現れたことだと言っている。
ところで教会の最大のお祭りはクリスマスみたいになっているけれど、もともとはそうではなくイースターだった。ここで福音の最も大事なことと言われていることを見ても分かるように、キリストが生まれたことはそこには入っていない。キリストが死んで葬られて復活したこと、それが福音の最も大事なことだと言われている。だから本当はどちらかと言うとクリスマスよりもイースターの方が大切なのかもしれない。
パウロは死者の復活がないとしたらキリストの復活もないと言う。そしてキリストの復活がなかったとすれば、私たちの信仰は無駄であり空しい、と言う。私たちの信仰の原点はこのキリストの復活なのだ、キリストの復活の上に全てが立っている、と言っているようだ。
その上で、実際キリストは死者の中から復活したと宣言する。そしてそれは眠りについた人たちの初穂となったのだというのだ。キリストが復活したことですべての人が生かされることになったというのだ。(22節)
キリストはどういう風に復活したのか、それもよくは分からない。どうしてパウロはこうも堂々と自信を持ってキリストが復活したこと、そしてそのことから全ての人が復活させられることを書いているのだろうか。
パウロはキリストが復活して弟子たちに出会ったことを書いている中で、最後に自分にも出会ったと書いている。でもそれは誰にも見えるような形で目の前に現れた、というような出会いではなかったようだ。一緒にいた人にはよくわからない、けれども本人にとってははっきりと声を聞き、はっきりと出会った、と言うような出会い方だったようだ。
そのキリストとの出会いによってパウロは人生を方向転換し、キリストは復活したと堂々と語るようになった。キリストの復活はパウロ個人としての出会いということだけではなく、全ての人の復活の希望となり、また神の完全へと繋がる希望ともなった。
死は人生の終わりではなくなったということだろう。死は暗闇への、あるいは絶望への入り口ではなくなった。いわば死は神の完全な支配への入り口なんだということだろう。
死が終わりならば私たちは死に向かって生きていかないといけない。そこが暗闇の入り口だとしたら、そこに向かっていくことはとても辛いことだ。高校生の時にはそう思っていたから全ては空しいと思っていた。
けれども死が単なる通過点であり、その向こうに神の支配、神の完全なる支配が待っているとしたら、私たちはそこへ向かって生きていける。神の支配という栄光へと向かって生きていける。
パウロはそんな栄光を望み見ていた。復活のキリストとの出会いを通して、自分の復活の希望を持っていた。そんな希望があったから厳しい迫害や苦難を耐え忍ぶことができたのだろう。
あなたはどこを目指して生きているのか、そう問われているのかもしれない。