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礼拝メッセージより
「新しく」 2007年12月2日
聖書:ヨハネの黙示録 21章1-8節
苦しみ
大変なことが待っているとそこから逃げ出したくなる。テストだったり、面倒な仕事だったり、説教だったり、大変だなと思うことが待ちかまえている時は気になって気になって仕方ない。たまにどこか別の場所で大勢の前で説教するように頼まれたりすると、ずっと前から心配と不安でいっぱいになる。なんかの拍子になくならないかとか、誰かが代わってくれないかなんて思う。いっつもそのことを考えてしまっていて、それが終わるまではずっと苦しいままということが多い。
でも最近、その先のことを考えるようになった。その大変なことの先のことを想像するようになった。大変な説教が終わった後はきっとほっとしてゆったり出来ているだろう、ということを想像するようになった。そうすると随分楽になる。想像する間だけでも苦しさがだいぶ減るような気がする。
新しい
黙示録は、教会が迫害されていた時に書かれたものだそうだ。当時はローマ帝国の時代で、ローマ皇帝を崇拝しないといけないという圧力がかかっていた時代だったそうだ。ローマ皇帝ではなくキリストを崇拝するとは何事か、と教会が迫害されていた時代に書かれたのがこの黙示録だそうだ。
そんな苦しみに会っている者に対して黙示録は、神の言葉として、最後の時には全てが新しくなると語る。天も地も新しくなるというのだ。それってどういうことなのだろう。ほとんど想像もできない。しかし苦しみの中にある者にとって、その苦しみが過ぎ去る新しい世界が来るという希望を抱かせるものだ。
希望
大変なことがあっても未来永劫続くわけではないことを知ること、今は苦しくてもやがてこの苦しみは終わるのだということを知ること、それによってその大変さ、苦しさを耐え忍ぶ力が出てくることがある。
逆に言うと、この苦しみがいつ終わるともしれない、と思うようなことが一番苦しいんだろうと思う。
でも神は、その苦しみはやがて終わる、全部なくなるときがくる、私はそうする、と言っているのだ。
見えるもの、見えないもの
神はそう約束してくれている。しかし見えるものに目を奪われるのが私たちの現実でもある。実際に目の前にある苦しみの方に目が奪われてしまう。
大きな苦しみを前にして私たちは圧倒されてしまう。どうしようもない無力感に押しつぶされそうになる。そして更になんでこんなことくらいでこんなにうろたえるのかと自分自身を嘆いたりする。
しかしそんな私たちに神は語りかけているのだろう。そんなあなたを私は支えている、そしてやがて全てを新しくする、この苦しみはやがて終わらせる、と。
新しく
その時、全てが新しくなると言う。ほとんど想像も出来ないようなことだ。私たちは自分では新しくできないいろいろなものを持って生きている。捨てたくても捨てられないいろいろなものを抱えたまま生きている。醜い思い、嫌らしいもの、自分でも大嫌いな自分を持っている。しかし終末には、最後の時には全てが新しくなると言うのだ。
悲しみと苦しみのある時はやがて過ぎ去り、すべてが新しくなるというのだ。もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない、そんな新しいものがやってくるという。一体どういうものなんだろうか。大変な仕事が終わってほっとできるようなことよりも、もっともっとほっとできるようなことなんだろうか。
それは神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる、からだという。そして神は自ら人と共にいて、その神となるからだというのだ。
価なしに
渇いているものには、命の水の泉から価なしに飲ませようという。ただでくれるというのだ。欲しくて喉がからからという者にはただでくれるというのだ。人間の努力によって勝ち取るものでもなく、優れた人間にだけご褒美として与えられるものでもなく、ただで与えるということだ。何の取り柄もない、何の価値もないと思うような者にも、神は命の水の泉から飲ませてくださるというのだ。
成就
事は成就した、という。全ては完成したのだ。新しい天と地によって全ては完成したのだ。新しい天地は決して古くなることのない、もう過ぎ去ることのない天地なのだ。この新しいという言葉には決して古くならない新しさ、というような言葉が使われているそうだ。事が成就し全てが完成する、その新しい天地は決して古くもならず過ぎ去ることもないということだ。
おくびょう者
その後に、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、、、、などのことが出てくる。ちょっと脅しのような言葉である。臆病な者、うそをつく者、という言い方がある。当時皇帝礼拝を強要される中で、それに対して抵抗できないことを意味しているようだ。しかしそういう抵抗ができない者に対する裁きの言葉というよりも、そういうふうにならないようにという励ましの言葉なのだと思う。
共に
世の終わりには神が人と共に住むという。それはクリスマスのメッセージと同じだ。神が私たちと共にいる、というのだクリスマスのメッセージである。世の終わりの全てが成就し完成される時に起こる出来事は、クリスマスにおいてもう起こり始めているということだろう。神が共にいてくれるという終末の出来事はもう始まっているということのようだ。今は終末とつながっている。その時神は人の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるという。
私たちには今はまだ悲しみも嘆きも労苦もある。まだ終末ではない。しかし神が共にいてくれている。今は終末に半分足を突っ込んでいるというようなことなのかもしれない。しかしやがて神は、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくれる。死もない悲しみも嘆きも労苦もない、そんな新しいものを神は私たちに用意してくれている。そんな希望を持って、この苦しい今をしっかりと生きていきたいと思う。